2023年11月30日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2867を読んで

2023年10月1日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2867では 随筆家・白洲正子の『かそけきもの』から、次の言葉が取り上げられています。    神に祈る姿は、世の中で最も美しいもの    の一つです。 最近は即物的で、私利私欲にまみれた、神仏への祈りや願いも、散見されるように見受けられますが・・・。 でも、祈りとは、自分を遙かに超えたものに身を委ねることだ、とこの随筆家は言います。 なるほど、少なくとも、祈りや願掛けをするときには、本人は自分より立場の一段高い何ものかに、その 想いを捧げていることは、間違いないでしょう。 その行為は、見下げたり、対等のものに忌憚なく話しかけるよりは、謙虚で高尚なものであるはずです。 相手に信頼を寄せることと、自分を低いところに置いて、相手を見上げるまなざしを持つことは、結局 自分の心が洗われ、満たされることにつながると思います。 常に感謝の念を抱くという心の持ち方と共に、忘れてはならないことだと考えます。

2023年11月21日火曜日

原一男著「全身小説家 もうひとつの井上光晴像」を読んで

同題の秀作ドキュメンタリー映画の制作ノート・採録シナリオです。私はこの映画を約30年前、京都国際 映画祭の上映作品として観ました。随分昔の話で、断片的なシーンや、おぼろげなイメージしか残って いません。しかし映画を観た当時私は、作家井上光晴について何の予備知識もなかったので、それを観て の感想も漠然としたものでした。 でもその後、井上と深いつながりがあった、作家瀬戸内寂聴の作品に興味を抱き、そこから彼女と井上の 関係、同じく作家である彼の娘荒野の視点からの二人の関係を知り、そして井上光晴の小説も読みました。 30年余りを隔てていますが、本書からこの映画を振り返ってみることも、新たな気づきを生むのではない かと思い、この本を手に取りました。 ドキュメンタリー映画で捉えるのは、ガンに冒された井上の最晩年の姿です。彼は著名な作家として、文学 振興のために自ら主催する、小説家志望者の養成機関伝習所を献身的に運営し、ガンが転移して末期的症状 を呈しても一縷の希望を失わず、命つきるまで作品を書くことに執念を燃やす、文字通り小説界の鬼才と いうイメージを与えます。 しかしこの映画が描くのは、それだけでは止まりません。親族、関係者へのインタビューから、井上が公表 している経歴や常々語っている回想に、真実と虚構が巧妙に混ぜ合わさっていることが判明し、彼が人たら しで、特に女性関係にだらしがなく、瀬戸内寂聴を含め、数々の女性と浮名を流し、家庭ではそのような夫 を郁子夫人が懸命に支えてきたことが分かります。そしてそれら全てを統合することによって、全身をもっ て虚構に生きた作家井上光晴の全体像が浮かび上がるのです。 彼自身が語るように、フィクション(虚構)の本質は、現実以上の激しい嘘の物語を作ることであり、彼は 身をもってそれを体現したのでしょう。ただ忘れてはならないのは、彼は虚構にまみれながら、その根底に は人間愛と社会正義への希求があり、それこそが井上文学の魅力であったのだと思われます。 またこの映画は、彼を通してフィクションの本質を問いかけていますが、原監督自らその制作意図を語る 本書を読むと、ノンフィクション作法の中の作為ということについても考えさせられます。つまり、ノンフ ィクション作品は、現実をありのままに描いたものではなく、監督の意図をもって作り込まれたものである ということです。フィクションとノンフィクションの奥深さについても考えさせられる読書でした。

2023年11月17日金曜日

「鷲田清一 折々のことば」2855を読んで

2023年9月19日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一 折々のことば」2855では 古代中国の賢者・老子の言葉をまとめた『老子』上篇第二十四章から、次の言葉が取り上げられています。    企者不立、跨者不行 「企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず」つまり、爪立ち伸び上がる者は立ち尽くせず、 大股で歩く者は長く歩き続けることができないという意味だそうです。 すなわち、自分を見せびらかす人も、自分がつねに正しいとする人も、物事は見えていないと述べている のです。 しかし今日では、このような人がどれほど多いことか。それどころか、ことのほか自分をアピール出来る 人が脚光を浴び、成功しているとも思われます。 でも堅実で、まっとうな生き方を標榜する人間は、世間に対して謙虚であり、また常に自分の正しさを 疑うべきであると思います。 しかしそのような生き方をする人が世渡りが下手だと考えられ、世間から顧みられない傾向にあるのも また事実でしょう。 埋もれたそのような人を正しく評価する、何かの仕組みや機構があるべきですし、私たち一人一人も世間 のそのような風潮に、疑問を持つべきだと思います。

2023年11月8日水曜日

トルーマン・カポーティ著「冷血」を読んで

徹底的な取材によって蓄積された膨大なデータを用い、現実を克明に再現した、ニュージャーナリズムの源流 とされる、アメリカのノンフィクション・ノヴェルの代表的名作です。 カンザス州で起きた、一家4人惨殺事件を題材としていますが、事件発生に至る経緯から、犯人の処刑までを 丹念に描写し、一つの事件を当時の社会的背景も含めて、細部に至るまで執拗に描き出すことによって、私たち の生きる社会の摂理、普遍的な人間存在の本質に迫る物語になっていると感じられます。 まず私が思いを馳せたのは、被害者家族の運命についてです。殺害されたクラッター家の主人は、熱心なメゾチ スト派クリスチャンの裕福な篤農家で、周辺住民の信望も集めています。彼の妻は病弱で、それがクラッター氏 の悩みでもありますが、16歳15歳の娘、息子も含め、申し分ない仲の良い家族です。 この4人が、見ず知らずのペリー、ディックの2人組によって、手足を縛り上げられた上、頭部を至近距離から 散弾銃で撃ち抜かれて殺害されたのですが、彼らが狙われた理由は、ディックが刑務所で同じ時期に収監されて いた男から、以前その男が一時働いていた、クラッター家の農場の噂話を聞いたためでした。 その話も、男が農場でクラッター氏に厚遇されたことによる、単なる自慢話だったのですが、それが結果的に 災難を招くことになります。この人生の不条理!クラッター氏に過失があるとすれば、夜に家の出入り口に鍵を かけていなかったことだけです。 これは昨年我が国で世間を騒がせた、裏社会で出回るリストを利用した、闇バイトによる強盗殺人にも通じる ものですが、この社会に理不尽な出来事は確かに存在します。防犯の注意は怠るべきではありませんが、運命を 決めるのは最終的には運、不運かもしれません。ただこの物語における数少ない救いは、ディックがクラッター 家襲撃を仄めかせていたという前述の男の証言によって、2人組の凶悪な殺人者が逮捕されたことです。 犯人のもう1人ペリーは、粗暴な白人の父と、後に飲酒に溺れることになる先住民の母の間に生まれ、家庭は幼少 より崩壊し、肉親の愛情を知らず、貧困、差別、更には肉体的欠陥もあって過酷な少年時代を過ごしました。 物心つく頃から犯罪に手を染め、この事件でも、被害者4人に実際に銃を向け殺害する役割を担います。 しかし本書を読み進めると、彼が内心には傷つきやすく、優しい心を持ち合わせ、絞首刑の直前には、被害者に 謝罪の言葉を述べる様子が描写されます。人間の生い立ちが、その後の人生にいかに影を落とすかということ、 また、死刑制度の是非について考えさせられました。