2016年2月28日日曜日

鷲田清一「折々のことば」322を読んで

2016年2月26日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」に
森鴎外の長男の医学者の「耄碌寸前」から引いた、次のことばが
取り上げられています。

 人生を模糊たる霞の中にぼかし去るには耄碌状態が一番よい。

夭折が悲惨なのは、明晰な意識のままで死を迎えるという部分による
比重が大きいと思います。殊に、かつて死の病と恐れられた結核は、
若くに発病して、意識ははっきりとした状態で徐々に死に至るという
意味において、幾多の悲劇を生み出したと感じさせます。

それゆえ現代医学がほぼ結核を克服して、最早ほとんどの場合、死を
恐れなければならない病ではなくなったということは、医学の発展の
画期的な成果でしょう。

しかし他方医学の進歩は、今日に至ってかつては考えられないほどの
長寿をもたらしました。そのような状況の中で、高齢を迎えた人々の多くは
自分がいつまで生きながらえるのかと戸惑い、またこれから老年を迎える
人々は、自身の老後の展望が開けない状況に、漠然とした不安を抱く
ということも、しばしば見受けられるようになって来たと感じられます。

また高齢化に伴って、認知症という病も私たちを恐れさせるようになって
来ました。しかし考えようによっては、認知症を患う当事者は、自分を
取り巻く環境さえ整っていたら、恐怖や不安をきれいに忘れ去って、
安らかな死を迎えられるのかも知れません。

いや少なくとも、認知症の老人を介護する家族は、そのように考える
ことが出来たら、随分気持ちが楽になるように感じます。上記のことばを
読んで、ふと、そんなことを夢想しました。

2016年2月25日木曜日

漱石「門」における、悟りを開くことが出来ず、山を下りる宗助

2016年2月25日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第九十九回)に、宜道の親身になった導きにも係わらず、とうとう参籠中に
悟りに達することが出来なかった自らの不甲斐なさを嘆く、宗助の様子を
記する次の文章があります。

「宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働を敢てするに
適しない事を深く悲しんだ。いわんや自分のこの山で暮らすべき日は既に
限られていた。彼は直截に生活の葛藤を切り払うつもりで、かえって迂闊に
山の中へ迷い込んだ愚物であった。」

宗助が無力感に囚われる様子が、伝わって来ます。漱石の分身で、近代的
自我の持ち主であった宗助には、最早心の雑念の全てをかなぐり捨てて、
一心不乱に道を求めることは、到底不可能だったのでしょう。

それは現代の自分に顧みても、更に納得出来ます。私には、彼以上に
不可能です。

以前、比叡山の千日回峰行を満行された行者の方の講演を、聞いたことが
あります。この行は、七年の歳月をかけて漸く達成されるそうですが、その
行者の方は、「私の満行の価値は、江戸時代以前に達成された行者には
遠く及ばない。なぜなら、その当時は人間の寿命が遥かに短く、全生涯に
占めるこの修行の歳月の意味が、今とはまるで違う。」と語っておられました。

勿論、謙遜も含まれるでしょうが、現代の世からすると霧の彼方の
江戸時代の修行者の心構えは、宗教的熱情において計り知れないものが
あったに違いありません。

漱石が生きた明治の世にあっても、彼のような先進的な近代人にとっては、
伝統の中に生き続ける宗教的信条というものには、どうしても体質的に
馴染めないところがあったのでしょう。

2016年2月21日日曜日

鷲田清一「折々のことば」313を読んで

2016年2月17日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」313に
宇宙開発にかかわって来た町工場の経営者植松努の次のことばが
取り上げられています。

 教育とは死に至らない失敗を安全に経験させるためのものです

私たちが暮らす現代の日本社会では、失敗をしないということに大きな
価値が置かれているように感じます。それゆえ私たちは、常々失敗を
するということに対して、過大なプレッシャーにさらされています。

またその裏返しとして、他人の些細な過失に過剰に反応するということも、
多々見受けられます。その結果この社会はますます窮屈で、ギスギスした
ものになっているのではないでしょうか?

もちろん失敗は避けるべきです。細心の注意も必要です。でも最初から
失敗を恐れて萎縮してしまっては、諸事前向きで、創造的な仕事はなかなか
成し遂げられないように思います。

では失敗を恐れず、物事に果敢に立ち向かう気風を育むには、どのような
取り組みが必要なのでしょうか?

まず失敗を体験させ、それが前向きなものであれば決してとがめず、自力で
その失敗の原因を見極め、克服するまで温かく見守る、上記のことばは
そのように語っていると、私は感じました。

2016年2月19日金曜日

漱石「門」における、夜のしじまを宜道に導かれ老師のもとへ向かう宗助

2016年2月18日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第九十五回)に、宗助が宜道に先導されて、老師のもとへ向かった初めての
夜の道行きの様子を記する、次の文章があります。

「「危険う御座います」といって宜道は一足先へ暗い石段を下りた。宗助は
あとから続いた。町と違って夜になると足元が悪いので、宜道は提灯を点けて
僅か一丁ばかりの路を照らした。石段を下り切ると、大きな樹の枝が左右から
二人の頭に蔽い被さるように空を遮った。闇だけれども蒼い葉の色が二人の
着物の織目に染み込むほどに宗助を寒がらせた。提灯の灯にもその色が多少
映る感じがあった。その提灯は一方に大きな樹の幹を想像するせいか、甚だ
小さく見えた。光の地面に届く尺数も僅かであった。照らされた部分は明るい
灰色の断片となって暗い中にほっかり落ちた。そうして二人の影が動くに伴れて
動いた。」

目の前に光景が浮かぶような詩的で美しい描写です。映像にでもすれば、
幻想的な場面が現出されるでしょう。

しかし同時に、宗助の思いや心の揺れも、この情景には見事に描き出されて
いると推察されます。つまり、安井の影に怯えて少しでも心の平安を得たいと
禅門をくぐったにも関わらず、老師の問いに答えを見出せない自分の頼りなさ、
不甲斐なさが、暗闇の足元のおぼつかない道を宜道のかすかな提灯の光に
導かれて、ぎこちなく進む彼の姿に映し出されていると、感じられるのです。

漱石の心憎い表現法と、思わずうならされました。

2016年2月17日水曜日

鷲田清一「折々のことば」312を読んで

2016年2月16日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」312に
新約聖書の使徒行伝の中から引いた、次のことばが取り上げられています。

 目から鱗が落ちる

よく知られた聖書の中の言葉です。一般に目から鱗の体験というと、
すがすがしい気分にさせてくれるものもありますが、ドキッとさせられることも
あります。前者は、その体験によって新しいことを知ることが出来た喜びであり、
一方後者は、間違った知識が正された時に感じるものです。

誤った知識が正されるにしても、まったく個人的に持っていた自分の知識が
間違いであった時には、せいぜい自身が恥をかくぐらいで済みますが、もし
その見当違いの知識が私の先入観になっていて、自分がその知識に従って
ものを考えていたり、ましてや行動を起こしていたりした場合には、周囲の
人々に迷惑をかけることになります。

そのようなことにはならないように、得た知識を鵜呑みにしないことを心掛けて
いるつもりですが、日々振り返ってみると、ついつい思い込みの思考や行動に
駆られていることがあります。よく反省させられるところです。

さて生半可な知識や表面的な知識は、しばしば私たちの考えや行いを誤らせ
ますが、とは言え知識というものは、無論我々が客観的に考え、冷静に行動
するための大切な指針となります。要するに、今得た知識が正しいものかどうか
もう一度冷静に検討してから、自らの血肉とすべきなのでしょうが、何かと
気ぜわしい今日、なかなか難しいことです。


 

2016年2月15日月曜日

柳宗悦著「手仕事の日本」を読んで

「用の美」の提唱者で、「民藝運動」の理論的支柱である、柳宗悦の著書です。
全国に優れた手工芸品を求めて、20年余りの歳月を費やした後著わされた
本書には、この運動にかける柳の熱情が読み取れます。

当時の我が国における西洋的価値観の一般への広い浸透や、工業化による
大量生産品の流通によって、各地で連綿と培われて来た手工芸の技術が
衰えることに強い危機感を抱いた著者が、多くの人々に伝統的工芸品の良さを
再認識させ、その復興に注力した功績は、現代に至るまで計り知れないものが
あるでしょう。

その証拠に後年、経済産業大臣による伝統的工芸品指定の制度が生まれ、
今なお「伝統工芸展」が毎年開催されて多くの観衆を集め、優れた工芸品が
人々に尊重されるのも、柳の活動の影響によるところが大きいと、思われます。

本書の第二章、「日本の品物」では著者自身が全国をくまなく巡り、地域ごとに
秀でた特色ある工芸品を取り上げていますが、本書出版後70年近い時が経過し、
現在でも特産品として認知されているもの、最早失われた産品としてその形状
さえ珍しいものがあり、歳月の隔たり、それらを用いた頃からの習俗の変化を
実感させられます。

第三章「品物の性質」では、優れた手工芸品が生まれる理由を解説していますが、
まずそれを生み出す工人たちが名を成すことを目的とせず、修行を積むことに
よって伝統を力にし、作り出す品物に誇りを持つことを上げています。

また当時の社会環境から推し量って、多くは教育を十分に受けていないにしても
実直であり、信心深い場合もあったという記述に、私は先日知った、琳派の始祖
本阿弥光悦が法華経信仰を中心に据えて工芸村を開いた史実を、思い出し
ました。

また優れた工芸品は実用に適した「用の美」を備えるものであり、実用のための
制約はその素材の性質や、用途に規定される法則に従うものとして、機能美や
シンプルさを有するといいます。これらの柳の定義は十分に説得力があり、納得
させられました。

他方、著者が全国の手工芸品の価値を啓蒙した意義は認めるとして、工業化が
さらに進展した私たちの属する現代社会にあっては、工業製品のより一層の
普及や、生活習慣の変化によって、手工芸品は全般に大変高価で、日用使いを
離れた限られた人に愛好される趣味品となっています。

このような時代に柳の説いた優れた工芸品の成立条件を考える時、それは実際の
手仕事の産品の枠を超えて、広くもの作りに携わる者の有すべき心得、あるいは
製品が評価される基準となっているのではないかと、考えさせられました。

2016年2月12日金曜日

細見美術館「春画展」を観て

昨年永青文庫で開催され、大きな反響を呼んだ展覧会の巡回展です。

長年タブー視されて来た春画の展覧会ということで、受け入れる美術館が
なかなか決まらなかったといいます。細見美術館の英断に拍手を贈りたいと
思います。

さて私自身も雑誌や美術書の図版で見たことはありましたが、実物を観るのは
初めてです。それだけ気合を入れて会場に赴きましたが、センセーショナルな
前評判にも係わらず、思っていたほどには混雑していなくて、少々肩透かしを
食わされた感がありました。まだ始まったばかりなので、これからかもしれません。

しかし鑑賞者の老若男女は、作品の中にはユーモラスな表現も見受けられる
のに、相対的に皆押し黙って厳粛な面持ちで春画に見入っています。また時折、
見知らぬ来場者同士の目が合うと、心なしか気恥ずかし気でもあります。題材が
題材だけに、見慣れたいつもの美術館風景とは違う趣がありました。

我が国は江戸時代以前には性風俗や性表現に対して寛容で、明治以降の
近代化と共に、西洋的な倫理観が導入されて規制が厳しくなったとは、今まで
聞かされて来たことです。

今回展観されている春画が、大名から庶民まで広く愛好されていたことを考え
合わせると、なるほどと頷かされますが、私の青年期ごろからの日本の性表現の
規制の変遷を振り返ると、取り締まりが厳しいほど表現は淫靡に流されて、
かえって猥褻性を増すように思われます。また反体制を旗印に、敢えて規制に
違反したり出し抜く行為が、喝采を浴びて英雄視されることもあります。

性行為は人間の必須の本能の一つで、青少年の健全な育成のためには、勿論
教育的配慮も必要ですが、歪んだ方向に向かうことや、扇情的になり過ぎることに
注意しながら、原則表現の自由は守られるべきだと、私は考えます。ちなみに
本展は、18歳未満入場禁止です。

出品作を実際に観た感想に移ると、まず名品揃いでその美しさに感動しました。
肉筆、版画とも細部まで精巧に表現された技術の高さ。特に繊細な毛の描写の
美しさ、艶やかさは感嘆に値します。

他にも絡まる男女の着衣の取り合わせの妙、装飾性や様式化。限定された行為を
いかに美しく、清新に見せるかと工夫された構図の大胆さや、省略の斬新さ。
後期の歌麿の作品などでは、睦み合う男女の表情の醸す情趣も忘れがたい。
紛れもない芸術性を感じました。

それにしても同じ行為を描く作品を、これほど繰り返し観ていても見飽きないのは、
私の中にも息を潜める本能ゆえでしょうか?

2016年2月10日水曜日

漱石「門」における、禅寺で宗助を迎え入れる宜道

2016年2月9日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第八十九回)に、安井の帰京に追い詰められた宗助が、煩悩を断つために
訪ねた禅寺で、紹介を受けた僧宜道に庫裏に招き入れられる様子を記する、
次の文章があります。

「「能うこそ」といって、叮嚀に会釈したなり、先に立って宗助を導いた。二人は
庫裏に下駄を脱いで、障子を開て内へ這入った。其所には大きな囲炉裏が
切ってあった。宜道は鼠木綿の上に羽織っていた薄い粗末な法衣を脱いで
釘に懸けて、
 「御寒う御座いましょう」といって、囲炉裏の中に深く埋けてあった炭を灰の
下から掘り出した。」

心細い思いを抱きながら、宗助は俗世間と隔絶された趣のある禅寺の山門を
くぐり、釈宜道の庵を探し当てます。山沿いにある境内の鬱蒼とした木々に
抱かれた静寂の佇まいが描写された後、その一部をなす高い石段の上に、
宗助が目指す宜道の一窓庵が姿を現します。

さてその庫裏の囲炉裏を巡る上記の文章を読んでいると、私は即座に、この冬
久しぶりに私たちの三浦清商店の店先に、長火鉢を出した時のお客さまの
反応を思い返しました。

冷える戸外から店内に入った凍えた来客が、嬉しそうに火鉢の炭で手をあぶる
様子は、手前みそながら、ささいなことではあっても、幸福そうに見えました。

宜道が宗助に示した振る舞いは、心に迷いを抱く来訪者に、同様な少しばかりの
慰撫をもたらしたのではないでしょうか?

2016年2月8日月曜日

鷲田清一「折々のことば」303を読んで

2016年2月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」303に
田村隆一の詩「帰途」から引いた、次のことばが取り上げられています。

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった(略)
 意味が意味にならない世界に生きてたら
 どんなによかったか

私たちは生きることにしても、働くことにしても、ついついまずその意味を
考えてしまいます。そして自分のやっていることに一体どんな意味が
あるのだろうかと、ついつい落ち込んでしまいます。

でも本当は、きっと意味なんて考えなくてもよいのでしょう。なぜなら今現在
ここに生きていることに、本来の価値があるのでしょうから。

自分のやりたいことを見つけて、しゃにむに取り組む。それがもし無理なら、
生きているというそのこと自体に価値を見出して、やらなければならないことを
とにかくやってみる。本当は、そうあるべきなのではないでしょうか?

でもこれは、大変難しいことです。なぜなら人というのは、ふと立ち止まった時、
往々に色々なことを考え込んでしまうものだからです。でもそれは、私の経験
から言っても、たいていろくな結果を生みません。

禅の教えの境地には、私自身浅学にして到底及びもつきませんが、今日の
このことばを読んで、無心という心の有り様への憬れは、ますます強くなりました。

2016年2月6日土曜日

作家高橋源一郎による、朝日新聞の1月の論壇時評を読んで

2016年1月28日付け朝日新聞朝刊に掲載された1月の論壇時評で、
高橋源一郎は、人気グループSMAPのテレビの生放送での謝罪を足掛かり
として、「暗黙のルールが潜む社会」というテーマで論を展開しています。

この紙面を通読した時、私は共感というのか、憤りというのか、何かもやもや
したものが、心にわだかまるのを感じました。しかし読み終わってすぐには
それを言葉に表すことが出来ず、10日ほどの時を隔てて思いが少しは
まとまったような気もするので、以下に記してみます。

日本という社会には、協調性とか同質の傾向が好まれるという意味において、
今日でも確かに、世間とか周りと軋轢を起こさない為の「暗黙のルール」と
いうものが存在すると、しばしば感じます。

それは一応民主的で、言論の自由が保障されていると皆が信じている現在の
私たちの社会にあって、一見奇異なことですが、その過去からの遺風は根強く
残り、風通しの良い、開かれた社会環境になるのを妨げているように感じられ
ます。ことにインターネットが普及した現在の社会状況にあっては、匿名性の
無責任な言論がこの傾向を助長し、かえってこの社会を息苦しいものにして
いるとも、感じて来ました。

その中での高橋の今回の時評のテーマは、私の心に重く響きました。そして
文中に取り上げられている、SEALDsの活動家福田和香子の言葉は、彼女の
活動の内容を具体的には知らない私にとっても、この閉塞的な社会状況を
打開する可能性を秘める言葉として、確かに訴えて来るものがあると感じました。
以下に引用して本文を閉じます。

 「下手に正義を掲げて突っ走ってしまったら、すごく偏った人間になってしまう
 から。半分靴紐がほどけていて、全力では走れなくてダラダラ歩いているぐらい
 のほうがいいのかなとも思う」

2016年2月4日木曜日

龍池町つくり委員会 25

2月2日に、第43回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

まず、先日の「新春きものde茶話会」の結果報告と、それを踏まえた次回に
向けての課題の検討が行われました。

参加者は60名強、うち外国人の方が24名ほど、ということでした。前回に比べて
参加者が大幅に増え、また、外国人を中心に満足頂いた方も多かったので、
成功裏に終えることが出来た、ということになりました。

反省点としては、当初予想よりも参加者が随分多く、予め着物を着用して
来られた方などは長く待ってもらうことになったり、折角のチャンスに外国人と
地元民の交流をあまり計れなかったことなどが、実際に運営側にいた私自身の
課題としても、挙げられると感じました。

ただ根本的な問題点は、この茶話会の当初の目的である学区内の新旧住民の
交流という意味で、該当する参加者がほとんどなかったということで、そのような
方々にいかにしてこのような催しに参加していただくかという命題は、依然として
残りました。

2月28日開催の杉林さんのカルタ企画は、名称も「マンガ家さんとカルタを
つくろう!」に決定して、京都国際マンガミュージアムを会場に、9:00受付開始
でスタートします。この催しは、従来の企画が広報活動が不十分であるという
反省も踏まえて、京都市教育委員会発行の子供向け広報誌「土曜塾」2月号
にも告知を掲載し、またマスメディアへのアプローチも検討されているということ
です。現在15名の申し込みがあるそうで、どれだけの反響があるのか、当日が
楽しみになって来ました。



2016年2月2日火曜日

漱石「門」における、坂井から安井帰京の事実を知らされた宗助の衝撃

2016年1月29日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第八十三回)に、大家の坂井からまったく予期せぬ安井の帰京を聞かされた
後、御米を目の前にした宗助の心の激しい揺れを記する、次の文章が
あります。

「 この二、三年の月日で漸く癒り掛けた創口が、急に疼き始めた。疼くに
伴れて熱って来た。再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込み
そうになった。宗助は一層のこと、万事を御米に打ち明けて、共に苦しみを
分ってもらおうかと思った。
 「御米、御米」と二声呼んだ。
 御米はすぐ枕元へ来て、上から覗き込むように宗助を見た。宗助は夜具の
襟から顔を全く出した。次の間の灯が御米の頬を半分照らしていた。
 「熱い湯を一杯貰おう」
 宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、嘘を吐いて
胡魔化した。」

宗助にとっては、突然のあの安井の出現は、さぞ衝撃的な出来事だったで
しょう。しかしどうして、この試練をすぐさま御米と共有して、手を携え
立ち向かう気持ちにはならなかったのでしょうか?

それはもち論、精神的に繊細で病弱な御米を気遣ったのに違いありません。
自分の受けたショックが大きければ大きいほど、彼はその事実を妻には
到底伝えられなかったのでしょう。

漱石の主人公は、心が傷付きやすく、その優しさゆえに、かえって自ら深い
孤独に陥ってしまうところがあるように感じます。