2016年12月30日金曜日

京都市美術館「ダリ展」を観て

私は今まで、シュルレアリスムの絵画を敢えてあまり積極的に観ようとしなかった
傾向があります。というのは、目で見たものを描くのではなく、頭の中で作り上げた
ものを描くというその姿勢に、何か嘘っぽさのようなものを感じていたからだと思い
ます。

ところが現代のグローバルで情報化された社会にあっては、何が現実で、何が
虚構であるかの境界線も曖昧になり、私たちが今日を生きているという実感も
なかなかつかみにくくなって来ていると、最近とみに感じるようになりました。

するとシュルレアリスムに対する私の受け止め方も変化して来て、もしかしたら
時代や社会に対して鋭い感性を持つ画家の脳のフィルターを通した絵画にこそ、
今日的な現実が色濃く反映されているのではないかと、思うようになって来たの
です。

ダリはシュルレアリスムを代表する画家の一人です。その名を聞くとまず、あの
風変わりな髭を思い浮かべ、私も彼のイメージの戦略にまんまとからめ取られて
いたのですが、今回この大規模な回顧展を観て、奇想という際物的な枠を超えて、
彼は紛れもなく世界の一つの現実を映し取ることに成功した画家であったと、感じ
ました。

まず、ダリが自身の画風を確立する以前の若描きの作品を観ても、それは
印象派風であったり、キュビスム的であったりするのですが、どこかに彼特有の
夢想的な気分、哲学的で硬質な雰囲気を宿す絵が多く見受けられます。すでに
彼の資質は抑えきれないものとして、顔を覗かせているのでしょう。

シュルレアリスム的な世界に居場所を見つけてからも、彼の芸術は止まることなく
変化、拡散の運動を繰り広げます。それは自らの思想を世界により広く知らしめる
ためでもあり、時代の要請に答えるためでもあったように思われます。

特に広島、長崎への原爆投下の後に生まれた作品群は、科学技術が人間の
思惑を超えて拡大し、逆に我々の思考や行動を規定する時代の到来を、予見的に
明示しているように感じられます。

ダリの芸術の魅力は、彼の過去から未来までも一望の下に見透かすような夢を
見る能力と、それを造形化する確かな描写力、一見冷徹のようでわれ関せず
というポーズを取りながら、にじみ出て来る詩情や人間への愛を、覆い隠すことの
出来ないところにあると、感じました。

2016年12月28日水曜日

漱石「吾輩は猫である」における、苦沙弥の人間世界の狂気についての思索

2016年12月26日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載166には
吾輩が、主人の人間界に蔓延する狂気についての思索を読心術で読んで、
その内容を代弁する次の記述があります。

「気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が
出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を
濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だといわれて
いる例は少なくない。何が何だか分からなくなった。」

一見取り留めもない考察のようでいて、その実は深いことを語っているように
感じました。

人間というものは、平時には相対的に一応分別もあり、健全な社会生活を営んで
いるように見えるけれど、社会情勢の激変など、周りの環境が著しく変わった時、
あるいは何か特殊な価値観が人々に共有され、その価値観が多くの人を突き
動かすようになった時など、通常には考えられない集団的な狂気に駆り立て
られるようになることがあるのは、歴史が証明する事実です。

そのような情動や狂気は、どうして引き起こされるのか?やはり一人一人の心の
中に狂気の種が潜んでいるのではないか?そんなことを考えさせられます。

あるいは突然カリスマ的な指導者が生まれて、その人の思想がある種の狂気を
はらんでいる時、通常は分別のあるはずの多くの人々が次第にその思想に
感化されて、最終的には思いもよらない行動に及ぶということがあるということも、
私たちは既に知っています。

勿論、社会の大きな動きに対しては、私たち市井の人間の一人がどうあがいても、
どうしようもないことも多いけれど、少なくとも苦沙弥先生や吾輩のように、この
社会というものを、やや離れたところから冷静に見る視点を持つことが必要では
ないか?そんなことも考えさせられました。

2016年12月26日月曜日

福富レンコンを調理してみました。

九州のお客様より、福富レンコンを沢山頂戴しました。このレンコンは、佐賀県
有明海の干潟の重粘土質で育生する、この県を代表する特産品の一つだそうで、
ホクホク、モチモチした食感が特徴ということです。

外観も泥が付いたままで幾節かがつながっていて、こちらの八百屋やスーパーで
売られているような、一節づつにカットしてあらかじめ泥を落としたものと比較すると、
取れたてで新鮮な雰囲気や、野趣があるように感じられます。

私は日頃は料理はしませんが、せっかくなので何か作ってみようと思っていた
ところ、丁度朝日新聞朝刊の「西川和尚のらくらく精進料理」に、”おろしレンコンの
ショウガ焼き”という料理が紹介されていたので、挑戦することにしました。

まず泥の付いたレンコンを良く洗い、おおざっぱに皮をむき、高齢の母親も食べる
ので、レシピより少なめの4分の1を取り置き、残りをおろし金ですり下しました。
日頃はダイコンぐらいしかすり下ろさないので、それに比べて繊維質が強く、硬さ
も粘り気もあるので、かなり骨が折れました。

次に残りのレンコンを細かく刻み、続いて生シイタケ、ニンジン、ネギも同様に刻み
ます。すり下ろしたレンコンにこれらと片栗粉を加え、良くかき混ぜて適当な大きさに
分けて丸めます。その具材をゴマ油を熱したフライパンの上に乗せ、厚さ1cmぐらい
になるまでギューと押さえつけて、お好み焼きのような形状にして焼きます。最初は
強火にして、それから弱火にしてじっくりと焼く方が焦げ付かないようです。

薄口しょうゆ、ショウガ、みりん、出だしで調味料を作って、焼き上がってきた具材に
万遍なくかけて味を含ませ、器に盛りました。

味は家族にも幸い好評で、私自身も口に含むと、すり下ろしたレンコンのホクホクした
感じと、刻んだそれの絶妙の歯ごたえ、また他の具材から引き出されたじわりとした
旨みが相まって、いかにもレンコンを食べたという満足を味わうことが出来ました。

2016年12月22日木曜日

漱石「吾輩は猫である」における、刑事とのやり取りで明らかになる苦沙弥の頑迷

2016年12月22日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載164には
泥棒を連れた刑事への苦沙弥のとんちんかんな対応を批判する迷亭に対して、
あくまで自説を抗弁する先生に、とうとう迷亭が匙を投げる様子を記する、次の
文章があります。

「迷亭も是において到底済度すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず
黙ってしまった。主人は久しぶりで迷亭を凹ましたと思って大得意である。」

やれやれ、救いがたい滑稽さを露呈する苦沙弥先生です。でもどんなに強情でも
憎めないところが、彼の人徳のなせるわざだと言えるでしょう。

私の実人生に照らし合わせてみると、世の中というものは、例え正しいと信じた
ことでも強引に押し通すと、得てして相手との関係に齟齬を来すものであると
感じます。この苦沙弥の行状についても、ただ笑い飛ばすだけではなく、自らの
戒めとすべきかもしれません。

この小説では、苦沙弥が頑固で融通うが利かないけれども、単純で正直者で
あるのに対して、親友の迷亭がいい加減で嘘つきであるにもかかわらず、
物事を客観的に見ることが出来る柔軟さを持ち合わせているというように、
二人の性格が対照的に戯画化されています。そのために互いの言動やものの
考え方が、より強調されて読者に伝わるのではないでしょうか?

いずれにしても二人のキャラクターは、それぞれ違う形で作者のそれを反映する
ものでしょうから、漱石は自分の性格を分離して描くことによって、自身で楽しんで
いるのかもしれません。

2016年12月20日火曜日

大野裕之著「チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦」を読んで

本書を読んで、チャップリンその人、映画「独裁者」、その当時の世界情勢について、
良くも悪くも先入観を見事に裏切られました。しかしそれは大変有意義なことで、
読書の醍醐味は全く新しい知識を得ることと、従来の価値観を覆される事実を
示されることであると、改めて気付かされました。

まずチャップリンについては、私も彼の数々の名作映画をスクリーンで観て、劇場
一体となった笑い、悲しみ、深い感動に包まれた経験を持つ人間の一人なので、
彼の映画俳優、監督及び総合映像作家としての才能は、十分承知しているつもりで
いました。

しかし彼の映画のイメージを構成している、独特の扮装、滑稽な仕草、演技の
即興的な性格から、私は彼に対して、直感に頼り、深く内省することのない、時流に
巧みに乗る術にたけた天才肌の芸人という人物像を、描き上げていました。また
多くの女性と浮名を流したという風聞も、彼への軟派なイメージを助長していたの
です。

しかし本書を読むと、彼が極貧の幼少期を経て映画界で才能を開花させて行く
過程で、曇りない社会批評精神を獲得し、反差別意識を醸成して、自身の映画に
その思想を反映させて行こうとした様子が、見て取れます。彼が映画制作において、
時の政治体制や世論の干渉に妥協しない硬骨漢であったことが、第一の驚き
でした。

「独裁者」の制作に当たっても、チャップリンはドイツで全体主義的な思想の下、
権力を掌握しつつあるヒトラーと自身の容姿が似ていることをヒントにして、
ファシズムを批判する映画を企図します。社会情勢に起因する数多くの困難を乗り
越えて、彼の映画作りに対する強いこだわりと完璧主義によって、脚本は幾度と
なく書き直され、カットの撮り直しも繰り返され後、ナチスがヨーロッパを蹂躙する
中で、ようやく完成を見ます。作品の素晴らしさから想像も出来ない制作の苦労談が
第二の驚きでした。

最も大きかった第三の驚きは、「独裁者」を取り巻く当時のアメリカの社会情況で、
ドイツでこの映画の制作が非難されたのは私の理解の範疇ですが、アメリカに
おいても制作準備の段階では、反共、ユダヤ人への偏見という意識や、経済的な
つながりという観点から親ヒトラーの気分がみなぎり、制作を妨害しようとする政治的
干渉や、一般人からの批判が寄せられた、といいます。この反共への意志は、
「独裁者」の興行的成功、対独戦勝利後もこの国の底流を形成し続けて、後の
チャップリン国外追放へとつながって行きます。

第二次世界大戦の敗戦後の東西冷戦期に、アメリカの庇護の下にあると感じながら
日本に暮らして来た私には、想像だに出来なかった当時のアメリカの国内情勢の
一つの事実を知り、文字通り蒙を開かれる思いがしました。

2016年12月18日日曜日

細見美術館「伊藤若冲ー京に生きた画家ー」展を観て

若冲の生誕300年を記念して、この美術館所蔵のコレクション、他にゆかりの寺院の
所蔵作品などを展示する、展覧会です。

若冲というと代表作「動植綵絵」がすぐに思い浮かびますが、本展展示の作品も
数は多くはありませんが秀作揃いで、彼の世界をじっくりと味わうことが出来ました。

まず本展では少ない彩色画から、「雪中雄鶏図」は彼が画家として活動を始めた
初期の作品で、まだ奔放で自在な気風は発揮されていませんが、造形力の確かさ
と緻密な描写、鶏の鶏冠の鮮やかな赤と尾羽の黒、草木に積もる雪の白さの
コントラストが美しく、また残雪の形状の面白さも画面に躍動感を与え、確かに非凡な
ものを感じさせます。

「糸瓜群虫図」は限定された色使いの中で、昆虫の写実的な描写や葉の虫食い跡の
表現などに、まるで虫眼鏡で覗き込んだような緻密で科学的な視点を感じさせますが、
私はこの絵から洋の東西を遠く隔てた、フェルメールの絵画との類似性を見る思いが
しました。

さらに関連展示の書状から、かの文人画家富岡鉄斎が、この絵を高く評価していた
事実を知ることが出来て、時を隔てた天才画家の才能の呼応を間近に感じる思いが
しました。

さて本展には若冲の水墨画が多く展示されていますが、モノトーンと言っても彼の
水墨表現は墨の濃淡、様々な筆遣いや技法を駆使して実に多彩で、観る者を
飽きさせません。

特に今回の展示の説明書きで知った”筋目がき(すじめがき)という技法は、紙に筆を
置いた時の墨のにじみを考慮して、適度な間隔を開けて墨を入れることによって、
にじみとにじみの間に境界を作る高度な技法で、彼は自身発明したこの技法を使って、
花弁の重なりによるふくらみや、鶏の羽の密集した部分のふくらみを、見事に表現して
います。

若冲の水墨画で面白いのは、若い頃の作品より晩年の作品の方が造形も筆遣いも
大胆で自由奔放になり、滑稽味も出て来るところで、彼が老年に至って、全ての
わだかまりを捨てた解放の境地に遊んでいる様を感じさせます。このようなところも、
彼の絵に人気がある秘密の一つでしょう。

他に禅画風の作品や戯画様の作品など、彼が京の町に生きた人物として、寺院や
周囲の人々とのつながりを感じさせる作品もありました。若冲が時を超えて身近な
存在に感じられる展覧会でした。

2016年12月16日金曜日

漱石「吾輩は猫である」における、迷亭の伯父さんの近代科学評

2016年12月13日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載158には
東大の理科で寒月が球を磨くのを見た迷亭の伯父さんが、寒月の行為に
かこつけて近代科学を批判する、次の記述があります。

「「凡て今の世の学問は皆形而下の学でちょっと結構なようだが、いざとなると
すこしも役には立ちませんな。・・・」

件の迷亭の伯父さんは、かなり大時代的な人物ですが、それにしても、現代に
おける学問の評価とは隔世の感があります。何故なら近年は文系の学問を
相対的に低く見たり、理系でもすぐに利益に直結しない基礎的な学問が学生に
人気がないなどの、傾向が現れているのですから。

現代社会が価値を置くのは、精神修養ではなく、実際的な利益ということでしょう。
勿論その当時と比べて社会が動乱の時代から遠ざかり、表面的には人々が
平和の継続を疑わない時代であることも、少なからず影響しているに違いありま
せん。

いずれにしても、漱石の作品を読んで明治時代のものの考え方の傾向に触れる
ことは、現代に生きる私たちにとって、時に当時の価値観に照射される今の世の
有り様を再認識することにつながるように感じます。このことも、100年後に漱石を
読むことの楽しみの一つでしょう。

また寒月が玉を磨く記述から私が連想したのは、西洋において科学がまだ魔法や
錬金術から独立する以前の黎明期の姿でした。基礎的な学問に没頭する彼の
様子は、純粋な科学の本来の魅力を、示してくれているように感じました。

2016年12月14日水曜日

鷲田清一「折々のことば」603を読んで

2016年12月10日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」603では
名手O・ヘンリーの短編小説「賢者の贈りもの」から、次のことばが取り上げられて
います。

  「あたし、髪が伸びるの速いから」

ずいぶん懐かしいことばを、目にした心地がしました。O・ヘンリーの短編は、
教科書で「最後の一葉」を読んで子供心に感銘を受け、前記の作品も含む短編集
を手に取ったのでした。

後に作者の生涯の概略を知り、決して平たんではなかったその人生の中で、
これらの珠玉の作品が磨かれたのではないかと、想像を巡らせたことも思い出され
ます。

若い時に読書で得た感銘は、一生大切なものとして残るのでしょう。

またこの作品は、本来贈り物とはこのようなものであるべきだと、感じさせます。
つまり、相手が何をプレゼントされたら一番喜ぶかを真剣に考えて、自分に出来る
精一杯の品物を贈る。互いがそのように考えて贈った結果が、たとえそれぞれの
相手への思いやりゆえに行き違いになったとしても、二人の心が十分に通い合って
いることが今更ながら確認されて、幸せな気分になれる・・・。

日常の中でものを贈る場合、私たちは忙しさにかまけて、また義務感から、時として
相手への気持ちをおろそかにして、手軽で、軽便な方法で品物を送るということが
起こりますが、真心を込めてプレゼントをするということの本来の意味を、この
作品は示してくれていると感じさせます。

クリスマスが近づくこの時期に相応しいことばだと、思いました。

2016年12月12日月曜日

ギャラリーマロニエ「祈りー京都精華大学テキスタイルコース18人展」を観て

ギャラリーマロニエで開催された「祈り」展を観てきました。この展覧会は、
京都精華大学芸術学部素材表現学科テキスタイルコースで鳥羽美花先生に
指導を受けた卒業生、在学生18人による型染の技法を用いた作品による
展覧会です。

出品者のうち、私たちの白生地を使用していただいている方も多く、また今回
その一人の学生さんからも熱心に誘って頂いたので、当日は楽しみにして
会場に向かいました。

まず型染と言っても多彩な形態の作品があり、その点も興味深く一点一点を
観て回りました。染色パネル、筒状のオブジェ、屏風、着物、布地を垂らした
展示物など。

さらには型染の表現方法も、伝統的ないわゆる型染らしい作品から、同じ
技法を使用しながらも一見型染とは思えないものまで、その多様さは同時に、
今回のテーマの「祈り」をいかに解釈して、それぞれの作者なりに表現を限定
された技法で実現しようという、若さ、気概のようなものが感じられて、好感を
持ちました。

このような若い表現者たちの作品を観ることは、染色に係わる人々を取り巻く
環境が大変厳しい状況の中で、意気消沈しがちな私たちに逆に勇気を与えて
くれると、一通り観終って感じました。

それぞれ力作ぞろいですが、私が特に感銘を受けたのは、この展覧会のチラシ
にも取り上げられている卒業生の賀門利誓さんの作品で、一点を除き厳密には
型染ではなく、小さく切った透明感のある生地を画面に幾重にも細かく、緻密に
貼りり重ねることによって、写真からイメージを得た図像を浮かび上がらせる
という作品です。

生地の光彩を放つ美しさ、何重にも重ねることによって生み出される時の堆積
のような感覚、記憶がポエジーに変わる瞬間を描き出しているようで、生地の
使い方という点でも、新鮮な驚きを覚えました。

2016年12月9日金曜日

鷲田清一「折々のことば」598を読んで

2016年12月5日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」598では
漫才師、作家の又吉直樹のエッセー集「東京百景」から、次のことばが取り上げ
られています。

 色々あった一日の帰り道に、近所のコンビニに立ち寄り、店内に流れていた曲が
 エンディング曲のように聴こえたりする。

日々のコンビニとのかかわりの中で、そうかこんな思いを抱く人もあるのかと、何か
今まで経験したことのない感覚に出合ったような、感慨を覚えました。そういえば、
私も読みたいと思いながらまだ機会を逃している、芥川賞受賞作の「コンビニ人間」
という小説もありましたっけ!

コンビニに対するこの感覚が新鮮に感じられたのは、私の暮らす古い街では、
酒屋、八百屋、菓子屋、たばこ屋、本屋といった、小さな小売りの個人商店が
どんどん姿を消して、代わりにあちこちで見かけるようになったのがコンビニで、私は
個人商店の店の主人とお客の顔の見える関係が好きで、それに対してコンビニは
対応がマニュアル通りで、扱う商品もある種画一的、よそよそしく冷たい感じを常々
抱いて来たからです。

しかし上記のことばに照らして考えてみると、コンビニが街の一部になって久しく、
私自身も始終利用していますし、夜遅くまで開いていて助かることもあります。また
若い人にとっては、コンビニに抱くイメージも随分違うものなのでしょう。また一人
暮らしのお年寄りにとっても、生活していく上で必要なものに違いありません。

やはり私の抱く感覚も、時代に合わせてある程度修正して行かければならない
のかもしれません。そういう視点に立ってみると、私たちの三浦清商店はさしずめ
古臭く、店の人間に尋ねないと商品は出てこないですし、商品に価格も表示させて
いない、ということになるでしょうか。

若いお客さまの新しいものの感じ方にも配慮しながら、守るべき伝統は大切にして、
これからも店を営んで行きたいと思います。

2016年12月7日水曜日

龍池町つくり委員会 35

12月6日に、第53回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

本日の主要議題は、平成29年1月29日(日)に開催予定の「新春きものde茶話会」
の詳細案の報告と検討で、予め制作された原案のチラシをもとに、担当の張田さん
より説明がありました。

催しの内容はほぼ前年通り、一、この地域のお正月の伝統的な習慣、風俗に
ついて古老のお話を聞く、二、京料理の料亭堺萬さんによる白味噌仕立ての
お雑煮の振る舞い、三、ちおん舎ご夫婦によるお茶のお点前、四、たついけカルタ
でカルタ遊び、また着物をお持ちでない方にはレンタル着物を用意、一人で着物を
着られない方にはスタッフが着付け指導をさせて頂く、というものです。

このうち一、では、昨年あった要望を考慮して、話の内容についてあらかじめ要点を
記したメモを作り配布することによって、参加される方々に説明がより分かりやすく
するよう配慮するということになりました。

また開始時間は午前10時を予定していますが、着物の着付けを希望する人は
午前9時30分に集合してもらって、開会後スムーズな進行が出来るようにしようと
いうことになりました。

告知チラシは全戸配布で、出来るだけ多くの区民に認知していただけるように
心掛け、さらに今回は各理事(町会長を含む)をご招待して、自治連合会の新年会
の意味合いも持たせようということになりました。

前回からの改善点も合わせて、地域の方々がより多く参加されることを、希望して
います。

2016年12月4日日曜日

本谷有希子著 小説集「異類婚姻譚」を読んで

第154回芥川賞受賞の表題作を含む作品集です。本谷有希子の小説を読むのは
初めてですが、何故か表題作の作品名に惹かれて手に取りました。

まず冒頭の「異類婚姻譚」を読んで、他の3作品を読みました。全作を通読して、
日常における他者との関係の不思議さ、コミュニケーションのままなれなさを、
象徴的、寓意的に描く作家と感じました。

他の3作品では、表題作と同じ夫婦関係を描くという点でも、最後の「藁の夫」に
興味を持ちました。全身藁で出来上がっていて、その内部に夥しい小さな楽器が
詰め込まれている夫は何を意味するのか?人の恋情というものが内実を超越した
イメージによって支えられているということか?あるいは、小さな楽器は夫の
爽やかさを具象化させたもので、妻は彼のその部分に恋心を抱いたということか?
よくは分かりませんが、人が人に恋する心情のエッセンスを、温もりを保ちながらも
表面的に掬い取ったような趣があります。

さて表題作は、一緒に暮らすだけでは飽き足らず、心までも一つに溶け合って
しまいたいと欲望する夫に翻弄される妻の物語です。私も時折、容姿だけでは
なく、しゃべり方までよく似た夫婦にお目にかかることがあります。二人はきっと
仕合せなのだろうと思いつつ、第三者的立場から見るとやや刺激に欠けるのでは
ないかと想像したりもします。

また世間一般の夫婦が同じ屋根の下に暮らし、経済活動を共にし、家庭生活を
維持することを共通の目的にしているとしても、それぞれが心の中で考え、感じて
いることは、必ずしも同一ではないということも一つの事実でしょう。

考えてみれば、見ず知らずの男女が偶然に出会い、DNAを残すという生命の
法則によって惹かれ合い、文化的慣習から家庭を持っても、個人ととしての自我が
意識されるようになった社会では、夫婦という関係を長く維持するためには、
互いの相手に対する心の持ちようが重要な要件になって来るのでしょう。

つまり本作の夫の欲望は、夫婦関係においても妻に他者を感ぜざるを得ない
現代人の孤独の裏返しであり、それ故社会的疎外感からの逃避先として、妻との
心身共の融合を切望しているということではないでしょうか?

そのように考えると本作は、一見SF的で無機的な近未来の男女の恋情を描いて
いるように見せながら、従来最も親密な人間関係の一つと考えられて来た、
夫婦間の精神的絆にも忍び込み始めた絶対的な孤独を、造形化することに成功
しているのではないかと感じられて、うすら寒い思いがしました。

2016年12月2日金曜日

漱石「吾輩は猫である」における、鏡を覗く主人への吾輩の感慨

2016年11月30日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載151では
鏡で自分の顔をとっかえひっかえ覗き込む苦沙弥の様子を見て、吾輩が展開する
人間論、人生論の中に、次の記述があります。

「鏡は己惚の醸造器である如く、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念を
以てこれに対する時はこれほど愚物を煽動する道具はない。・・・しかし自分に愛想
の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。・・・」

この考え方は、漱石の美学でしょうか?確かにうぬぼれが自惚れを増長する姿は
醜悪この上ないものであり、出来ればそんな人にはお近づきになりたくないと、
誰しも思うでしょう。

しかしそれに対して、自身の欠点、醜さを十分に自覚して日々を生きることは貴い
ことであると、漱石は述べています。己の分を悟るということは、禅の教えにも
通じているのでしょうか?

確かに世の中には、自分にやたらと自信を持っている人も少なからず存在し、
そういう人に限って発言力や周囲への影響力も大きいので、何かと目立ちやすい
ものです。しかしその人物の自信が裏付けのないものであったなら、得てして
周りに迷惑を及ぼす存在となります。

他方、決して自分の考えを声高に主張はしないけれど、自分自身についても、
そして周囲のことも、物事の本質をよく理解していて、この人が控えめに口に
する発言は、重みがあり、周りにも十分に役に立つということがあります。

漱石はそういうことを言いたかったのではないかと、私自身の願望も含めて考え
ました。