2021年3月29日月曜日

私の大腸がん闘病記①

さて私は、昨年の夏より大腸がんの治療を受けて来ました。しかし闘病のただ中では、 なかなか状況を語る気持ちも起こらず、このブログでも、その事には一切触れません でした。でもようやく、とりあえずの治療終了の目途も着いて来たので、自分自身への 備忘録としても、その間の経緯を断続的に、ブログに書いてみたいと思います。 まず第1回は、ことの始まりから。昨年2月に、例年通り定期的に受診している人間ドック を受けました。今まで長年受診していて、比較的大きな異常があったのは9年ほど前の 1回で、その時は血糖値が高く、このままで行くと、高脂血症、糖尿病になる確率が高まる ということでした。 その通知が受診病院から来た時には、ちょうどその前年、父が長年患う糖尿病に起因する、 脳梗塞を発端とする諸症状によって他界していたので、私のこの病気に対する危機感も 強く、早速その病院に行って医師の指導の下、食生活の改善と運動を今まで以上に行う ようにして、1年ほどで数値は改善し、事なきを得ました。 さて、長年の人間ドックの受診経験の中で、目に見えた異常はこの1回きりだったので、 昨年のドック後に、便の潜血反応が高いので至急に再受診すべしという通知が来た時、 病院に行くべきとは思いましたが、折からのコロナ禍もあって、もうしばらく様子を 見てから行っても遅くはないと、結果的にそのまま放置してしまいました。

2021年3月26日金曜日

ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史㊦」を読んで

上巻の記述の捕捉になりますが、「農業革命」期に神話が生まれ、文字が発明されて、 サピエンスが諸々の事柄を記録する手段を得たことも、特筆すべきことです。これらの事象 は、彼らの統合の規模拡大に、道を開きました。 さて、このような働きを更に加速させたのが、貨幣、帝国、宗教(イデオロギー)の出現で した。貨幣は、それまで限られた地域内の物々交換が主体であった、経済活動を飛躍的に 拡大させ、帝国の出現は、文化の地球規模での拡大を促し、宗教(イデオロギー)のある ものは、教化という目的のために、布教地域の拡大を指向し、帝国主義的侵略の原動力と なりました。 そしていよいよ、今日の我々の暮らしとも関係が深く、サピエンスの地球上での絶対的な 地位を確定付けた、「科学革命」の登場です。「科学革命」によって彼らは、自然現象及び その法則を客観的に捉え、それを応用して、工業、医学、通信交通手段を爆発的に拡大、 発展させました。 この部分の記述で興味深いのは、「科学革命」の切っ掛けとなったのが、サピエンスが自然 現象に対して自らの無知を認識し、貪欲に真理を探究するようになったため、という解説 です。つまりそれまでは、人々はこれらの事柄について宗教上の教えや先人の説に習って、 自明のことと考え疑問を持たず、従って進歩ということを信じていなかったので、新しい 知識の獲得は、おろそかになっていたのです。この事実は、私たちにとっても、先入観に よる思考の妨げの弊害を、教えてくれます。 また「科学革命」の進展には、帝国主義と資本主義が、大きな力を発揮しました。帝国は 自らの国力の増強のため、この革命を強力に援助し、資本主義の産業革命も、自らの利潤の 増大のために、これに続きました。このように見て行くと、今日の人類の繁栄は、必然の ようにも感じられます。 しかし本書が、これまでの歴史書と異なるのは、以降の記述にもよります。つまり、サピ エンスのこのような発展は、地球上の他の生物にとっても利益であるかと考える、全地球的 視野です。この点では、人類の繁栄と引き換えに、絶滅した種は数知れず、地球温暖化の 問題と合わせて、我々が罪深い存在であることは、一目瞭然です。 あるいは、サピエンスこのような飛躍的進歩を遂げて、現在は果たして昔より幸福であるか と問う、相対的視点です。この点においても、確実な答えはありません。 人類史を従来の人間中心の視点では捉えず、地球規模でその功罪を問う、我々のこれから 進むべき方向にも示唆を与えてくれる、画期的な書です。

2021年3月23日火曜日

「古田徹也の言葉を生きる 伝統も変化も踏まえつつ」を読んで

2021年3月11日付け朝日新聞朝刊、「古田徹也の言葉を生きる」では、「伝統も変化も踏まえ つつ」と題して、哲学者古田徹也が、時代の変化に即して、慣用的な日本語の言葉の使用法 を吟味することの必要性について、語っています。 例えば、具体的な例として、「未亡人」という言葉は、元々「(夫とともに死ぬべきなのに) 未だ死なずにいる人」という意味合いがあるので、現在では、この言葉の使用を控える傾向 が強まっている、ということです。 私は、この言葉が従来、隠微なニュアンスを持って、大衆小説や映画の題名に使われていて、 何か謎めいた雰囲気を有するとは感じていましたが、この文章でその元来の意味を知って、 なるほどなあ、と感心させられました。 しかし、この言葉は極端な例として、指摘のように、「女々しい」「男気」「雌雄を決する」 「雌伏」「雄大」「処女作」などの言葉は、全般に使用を慎むべきかは、日本語の豊かな 表現性を制限してしまうという意味でも、まだまだ検討を要するところでしょう。 つまり、一概にその言葉の含む字ずらやニュアンスを持って、厳密に使用を制限することは、 その言語の豊かな表現力をそぐことにもつながりかねませんが、ただ私たちは、それら微妙 な立ち位置にある言葉を使用する時には、十分に自覚的であるべきではないか。 この文章を読んで、そのように感じました。

2021年3月20日土曜日

ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史㊤」を読んで

人類史を歴史的記述のみならず、著者独自の構想によって、イマジネーション、スケール 豊かに読み解く大著です。念願叶い読むことが出来ました。 さて実際に読み始めると、本書の根幹をなすと思われる記述が、第1部「認知革命」に すでに登場します。つまり、我々ホモサピエンスの祖先が、並み居る原人たちを淘汰して、 地球上の人類の主役に躍り出た理由を解説する場面で、著者がサピエンスが他の人類種 より優れていた部分は、後には国家や国民、企業や法律、人権や平等をまでも信奉するに 至る、「虚構」というものを信じることが出来たからであると、語ってるところです。 初期のサピエンスは、他より並外れて知能が優れているか、腕力に勝っている訳ではあり ませんでした。しかし彼らは、ある時目の前にある現実だけではなく、仲間やその中での 掟を信じることが出来る想像力を獲得したのです。 これによって彼らは、集団的に敵に対抗し、組織立って生存のための課題に対処する術を 身に付けました。それが今日のサピエンスの発展につながっているのです。この部分を 読んで私は、我々人類の地球上での繁栄の要因として、おぼろげながら感じたことに、 お墨付きを与えられたような感覚に囚われました。つまり、恐らくそうであろうと感じて いても、系統立てて説明出来ないことに、明確な筋道を与えられた感覚です。 またそれと同時に、このサピエンス発展の要因の説明は、私に新たな感慨を生じさせま した。それは彼らが、各地に数多生存していた他の人類種を駆逐しながら同化もして行っ たという事実の記述で、集団行動の利点という知恵を身に付けながら、残虐な野生の本能 にも忠実であったことを知ったからです。 今日残っている神話的記述から、私たちが人間の本性として読み解けるもの、あるいは、 一見理性的に振舞っているように見える、現代人の心の底になお留まるものについて、 改めて考えさせられました。 「虚構」を信じる力は、第2部で取り上げられる「農業革命」にも生かされます。つまり サピエンスは、食料供給の安定と定住を求めて、農耕を始めます。それは人口増加をもた らし、村社会の形成を促進させますが、同時に、今まで以上の勤勉さを求められ、飢饉 などの災厄のリスクを負うことになります。 より豊かな生活を夢見る人類の共同幻想が、「農業革命」を生み出す原動力になりますが、 それ以前の狩猟採集生活の方がある意味生活の質も高く、生きるためのストレスも少な かったという事実が、アンチテーゼとして浮かび上がって来ます。

2021年3月16日火曜日

山折哲雄の朝日新聞朝刊刊頭エッセーを読んで

2021年3月2日付け朝日新聞朝刊では、本号が創刊5万号に当たる記念号のため、刊頭に哲学者 山折哲雄のエッセーが寄せられていて、その文章に感銘を受けたので、ここに取り上げてみ ます。 文中筆者は、この記念日が宇宙探査機「はやぶさ2」の地球への帰還と重なったことから、- 無限の情報を運ぶ新聞と、はるかな小惑星から微量の砂を運ぶ探査機ーその二つの物語に誘わ れたためか、明治の文豪森鴎外が書いたエッセー「空車(むなぐるま)」の初夢を見た、と いいます。 荷物を何一つのせない大八車を、屈強な男が馬の口をとって引いていく姿に接すると、職業、 身分を問わず全ての者が道を譲り、自分もこれに出会うと目で迎え、送ることを禁じ得ない、 と鴎外は書いているそうです。 ここでいう「空車」は、何を指すのか?正に何もない空(から)を運んでいるのか?それとも、 空なればこそ、無限のものを運ぶ可能性を秘めているのか? 私には、空と無限のものは、表裏一体のように感じられました。つまり、空なればこそ、無限 のものを運ぶ可能性を有し、逆に無限に見えるものでも、その本質は空である、ということで はないかと、思うのです。 この地球上、いや宇宙も含めて全てのものは、移ろい行くもの。それだからこそ、私たちは そこに永遠の真理を究めようとし、その行為自体が尊い。それゆえに私たちは空車に、畏怖の 念を抱くのではないでしょうか? 筆者が、社会的真実の追求や、科学的真理の探究に空車を重ね合わせたのは、それゆえでは ないかと、私は感じました。

2021年3月12日金曜日

筒井淳也著「社会を知るためには」を読んで

私たちは常日頃、社会という言葉を何気なく頻繁に使っていますが、では一体社会とは 何かと問われると、明確な答えを見出せないように感じます。そのような想いもあって、 社会について分かりやすく解説してくれると思われる、本書を読んでみることにしまし た。 しかし読み始めると、この本は社会とは何かを語ろうとするものではなく、社会という ものの分からなさ、そして私たちは、その中でいかに振舞えばいいかを、指南しようと する書であることに、すぐに気づかされました。でも結局、私が社会とは何かを理解し たい訳は、そこでいかに生きたらよいかを知りたいためであるので、躊躇なく読み進め ることにしました。 さて本書では、現代社会の分からなさの理由として、以下3点を挙げています。 ①私たちが「専門知識」や「専門的な仕組み」に取り囲まれていること。これは社会が、 近代以降ますます分業化、専門化され、個々の人間は、自分の携わる仕事や専門分野の 限られた知識はありますが、そこから少しずれると分からない世界が広がっており、 それをことごとく理解することは、到底不可能であるということです。 ②専門的な知識やそれを活かした仕組みが、周囲から独立して存在している訳ではない。 おまけに、それぞれの専門的な知識や仕組みは、個々に存在しているのではなく、複雑 に絡み合って社会を成り立たせており、社会そのものをますます理解できないものに しています。 ③私たちはいつの間にか、専門的な知識や仕組みが絡み合って動き続けている、この 乗り物に乗って生活している。更に、社会は絶え間なく動き続けており、私たちはそれ を理解しようとしても外部から俯瞰することは不可能で、正にその渦中から認識しよう とすることしか出来ません。また、それぞれの仕組みのつながりが緩やかで、場合に よっては色々な可能性が存在することも、社会に対する厳正な理解を妨げています。 そしてこの複雑な社会で暮らしていくためには、①人々は安定した基盤がないと、変化 に踏み出すことさえ出来ない。安定と変化は、両立させないといけない。②失敗した 人たちを非難する際には、その人が置かれていた状況を出来る限り、理解しようとして からにするべき、と語っています。 つまり、バランス感覚と柔軟性、寛容の精神と冷静な分析が、必要ということでしょう か?社会学者による科学的知見と学術的方法による考察ゆえ、一般的な処世訓とは一味 違う、人生指南になっていると、感じました。

2021年3月9日火曜日

「小川さやかのゆるり観察記 格好つけは気遣いの印」を読んで

2021年2月10日付け朝日新聞朝刊、「小川さやかのゆるり観察記」では、「格好つけは 気遣いの印」と題して、文化人類学者の筆者がタンザニアからの帰国前に、バスの 運転手らとムガンボ(行政の治安維持隊)が、バスのストライキを巡ってもめている 現場に遭遇し、流れ石に当たって頭から流血、病院で治療のために頭頂部をバリカン で剃られて、病院前のベンチでしょげていた時に、現地の友人たちにあらかじめ商売 を手伝って得た金銭を分配していたものを、彼らが小川の負傷を気遣って返すと申し 出て感激したエピソードに触れて、格好つけは贈与の形の一つだと、語っています。 私はこの言葉に、贈与という行為の普遍的な意味の一つが含まれていると感じ、感銘 を受けました。 相手に好意や感謝の気持ちを抱くから、ものをあげたくなる。もらったからあげる。 見返りを期待してあげる。シチュエーションは色々あれど、打算のみで贈与するのを 除き、この行為には多かれ少なかれ、あげる方の格好つけが含まれていると、感じる からです。 そしてその格好つけが相手に通じたら、その相手も送り主に感謝するのではないで しょうか?つまり格好つけは、相手への気遣いの印ということです。 こう考えると、人にものをあげる時には、ちょっと恥ずかしさもあるけれど、多少 なりと格好をつけたいものだと、この文章を読んで感じました。

2021年3月7日日曜日

三島由紀夫著「命売ります」を読んで

三島に肩の凝らない面白い小説があると新聞の書評欄で知り、本書を手に取りました。雑誌 「プレイボーイ」に連載されたエンタメ小説であるだけに、確かに彼の代表的な本格小説と 比べて読みやすく、後味もあっさりとしています。 しかし、解説で種村季弘が話すように、三島がある意味書き飛ばしたような小説であるだけ に、彼の無意識の本音が作中に露見しているようにも、感じられます。その点が大変興味 深かったです。 まず、三島の死生観です。本書の主人公である羽仁男は、元々コピーライターとして生計を 立てていましたが、ある日新聞の活字がゴキブリに見えて判読不能となり、人生に虚無感を 覚えて自殺を試みます。それでも死にきれなかった彼は、一度捨てた命と開き直って、自ら の命を売る商売を始めます。 周知のように後年三島は、日本の現状打破のために自衛隊の蜂起を促して、割腹自殺を遂げ ました。その自死の原因には、思想哲学的なものがあるのですが、元来彼に死への願望が あったことも、間違いないでしょう。そしてこの小説の羽仁男には、三島自身が感じる生の 無意味さと死への憧憬、そして死を恐れぬ者への礼賛の念が、投影されているようにも感じ られます。 次に、この小説の前半と後半で、羽仁男の死というものの捉え方、それに伴う行動様式が、 大きく変化していることが分かります。つまり、前半の彼は、命売りますの題名通り、命を 捨てることを恐れない、果敢さで女性を篭絡し、迫り来る危機を乗り越えて行きます。 さながらハードボイルド小説のマッチョな主人公のようです。 しかし後半では、一転彼は命を買われ、狙われる立場になり、何とか自分の命を守ろうと もがき、ひたすら逃げることになります。この心境の変化は、なぜ起こったのでしょうか? 三島は、主人公を最後までヒーローとして描くことを、良しとしなかったのでしょうか? あるいは、出来なかったのでしょうか? 読み進めて行くと、前半の華やかさ、小気味よさに比べて、後半は一気にトーンダウンした ような、宴の後のような雰囲気が漂います。私には、行間に、彼の滅び行くものへの嗜好、 共感が感じられました。あるいは本作が、日本の高度経済成長期に、雑誌に連載されたこと も、関係しているかも知れません。 いずれにしても、我が国を代表する小説家の一人である、三島のエンタメ小説は、作家自身 の経歴も含めて、色々なことを考えさせてくれる、興味深い小説でした。

2021年3月2日火曜日

鷲田清一「折々のことば」2070を読んで

2021年2月1日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」2070では 作家・朝吹真理子とファッションデザイナー・黒河内真衣子との対談「創作の海 深く深く」 から、朝吹の次のことばが取り上げられています。    でも、自分より命が長い服もあってほし    い。 現代では、洋服というと何年か着て使い捨てというイメージがありますが、昔は長い間愛用 して、そのまま成長した子供に譲ったり、あるいは加工をして小さい子供用の服を作ると いうことも、日常的に行われていたと記憶します。 特に私自身の思い出としては、父のズボンを母が加工して、子供用の半ズボンを作ってくれ たものをよく着ていて、近所の大人の人にいつもおしゃれな服装をしているね、と言われた ことを覚えています。 このように、服自体も耐久性のあるように作られ、それが長く着続けられるということは、 その存在に愛着が増して、心に余裕や豊かさをもたらしてくれるように感じます。ましてや、 限りある地球資源の持続的な利用の必要性が叫ばれている現在、ものを大切にして長く使う ことは、必然性を持つことでもあります。 元来日本人には、和装というその服飾文化において、汚れたり着古した着物の洗い張り、染 め替えなどを行い、出来るだけ長く着続ける習慣がありました。勿論昔は、ものが有り余っ てはおらず、機械化による大量生産が出来なかったという事情もあって、今とは単純に比較 出来る訳ではありませんが、私たちはものを大切にする習慣をもう一度思い起こすべきで あると思います。 そうすることによって、私たちの精神文化は、今より格段に向上すると考えます。