2024年1月31日水曜日

山口昌男著「「敗者」の精神史」を読んで

明治以降「敗者」の立場を出発点として、主権者側とは異なる視点で、我が国の精神文化に影響を与えた 人々の生き方を跡づける書です。 明治以降の「敗者」の代表的なものは、維新に際して佐幕側に付き、新政府から冷遇を受けた人々ですが、 彼らは一般に反骨心から逆境に立ち向かい、あるいは、斜に構えて在野の立場から独自の魅力的な思想を 生み出し、更には、超然とした態度で孤高の精神文化を醸成するに至っています。 頁数の多い書籍なので、取り上げられている人々の範囲も幅広いのですが、ここでは、私が特に興味を 惹かれた数件の事象について書いてみたいと思います。 まずは明治以降の政府主導の急激な近代化から、少し外れた分野としての独自の百貨店文化の誕生につい て。江戸時代に富を築いた大手呉服商が、明治になると近代化、西洋化の波にさらされ、業態の転換を 求められ、商品の提供のみならず、娯楽、美意識を含めた、庶民の文化を創生する装置としての百貨店 誕生へと向かって行きます。 その課程において、同じく生き方の転換を求められた経済界、工芸美術界、出版広告、文学思想界の幅 広い人々が、関わって行くのです。そう考えると、今日の消費文化の基底にも、この頃に築かれた価値観 が脈々と受け継がれ、形を留めていると感じられて、納得させられるところがありました。 次に、官製ではない在野の私立大学の誕生について。明治以降国の設立した帝国大学のみならず、独自の 教育方針に基づく私立大学の創設の動きが起こりましたが、例えば同志社大学の場合、江戸時代鎖国の 国禁を犯して渡米した新島襄が、帰国後明治政府に影響力を持つ元佐幕派であった旧会津藩士、山本覚馬 の助けを借りて、キリスト教教育の大学を設立するに至ります。このエピソードは、私も同志社出身で あるだけに、感慨深いものがありました。 最後に、国画創作協会展における「穢い絵」事件について。美しさのみならず、女性の内面の醜さをも 表現する絵画を描いた甲斐庄楠音が、同展の主導的画家土田麦僊に「穢い絵」と批判されて、画壇を去る ことになります。甲斐庄は楠木正成の血を引き、歌舞伎など伝統芸能への造詣が深く、自らも女形に共感 を覚えるところがあり、その嗜好も含めて、日本画の正統」を重んじる麦僊と相容れないところがあった と思われますが、甲斐庄の絵画は、今日革新的であると再び脚光を浴び、再評価が進んでいることは、 文化の成就の一端と、好ましく思われるところがあります。

2024年1月24日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2915を読んで

2023年11月20日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2915では 民俗学者・柳田国男の随想「教育の原始性」から、次の言葉が取り上げられています。    日本の伝統には、文字は勿論口言葉にも    表されないで、黙々と伝はつて居るも    のがあったのである。 柳田によると、シツケは元々「人を一人前にする」ことで、昔は「あたりまへのことは少しも教え ずに、あたりまへで無いことを言い又は行ったときに、誡め又はさとす」のが常であったという ことです。 つまりは、教える側が教わる者を、初めから強制的に正しい形にはめ込むのではなく、教わる者が 気づくように導くということでしょう。 でもこの方法は手間や時間がかかるので、先にマニュアルを定めて、相手をその鋳型に押し込める ようになったのでしょう。 そのような教育法が、個性のない、型どおりのことしか出来ない、上からの言いつけに従うばかり の人間を大量に生み出しているのは、間違いありません。 だから、日本の従来の徒弟制度的な鍛錬、つまり、基礎を体で覚え込ませるような指導法を、何ら かの方法で現代の教育に取り入れることも、必要だと思います。 最も、よりスピードアップと効率化を求められる今の世では、そのように身振りと後ろ姿で伝える ような教育は、ますます難しいように思われますが・・・。

2024年1月19日金曜日

東野圭吾著「容疑者Xの献身」を読んで

ご存じベストセラー作家の人気作ガリレオシリーズ初の長編で、直木賞受賞作です。 同シリーズは映画化もされていますが、私は今まで彼の作品に触れることはありませんでした。それ故に 本書は、大きな期待を持って読み始めました。 ミステリーなので、筋を追うことは野暮というものですが、導入部は極めてオーソドックス、付きまとう 別れた元夫から解放されるために、靖子、美里の母娘が同情の余地のある殺人を犯します。途方に暮れる 二人に救いの手を差し伸べたのは、彼女らのアパートの隣室に暮らし、靖子に密かに好意を寄せる、恵ま れない天才数学者石神でした。 以降、石神の天才的な頭脳を駆使した、殺人事件隠蔽工作が始まりますが、読者はこの時点で、徐々に 違和感に包まれて行きます。というのは、殺人を隠蔽するには、まず死体を隠すのがセオリーなのに、 遺体は早々と発見されるのです。 この前提条件が崩れているので、直ぐに重要被疑者となり、密かに石神のアドバイスを受ける靖子と、事件 担当刑事草薙との攻防は、もどかしいものとなります。靖子の立場に立てば、捜査の進捗状況は全く分から ず、草薙の側からすれば、事件の核心に迫れそうで迫れません。そして終盤には、石神のシナリオ通りに、 事件は真実とは違う決着に向かうかに見えます。 しかしそこで起死回生の解決をもたらすのが、草薙の友人であり、かつての石神の親しい学友で、理学部 同窓生、ガリレオこと天才物理学者湯川学です。 物語の筋に添うのはこれくらいにして、私も最後には、自分の思い込みが全く覆されて、あっと驚かされま した。その意味では秀逸なミステリーであり、登場人物それぞれの社会環境や、置かれた立場による思考法 や、感情の機微も丁寧に描き込まれた、極上のエンターテインメント小説でしょう。 ただそれでも私には、何か釈然としないものが残りました。それは理学的な頭脳明晰者への無条件の礼賛で あり、そのような人物を特別視するエリート主義です。 かつてお互いに一目置いていた、天才的人物二人の事件解決を巡る攻防が、この物語のハイライトですが、 湯川が、石神の自らの身を犠牲にして仕掛けたトリックを全て見破った時、ある種すっきりとしたものを 感じられなかったのは、多分このようなエリート主義にも起因する部分があると、思われました。

2024年1月11日木曜日

柄谷行人著「トランスクリティーク カントとマルクス」を読んで

最近また注目を浴びる、評論家柄谷行人の主著で、カントとマルクスを通し「資本論」の意味を解明し、来る べき社会のあり方を構想する、スケールの大きな著作です。 正直私には、この本の語るところのどこまでが理解出来ているか、全く自信がありませんが、自分なりに受け 止めた部分について、述べてみたいと思います。 まず私が本書を読もうと志したのは、マルクス、エンゲルスの提唱を元に実現した、社会主義実験国家ソ連が 崩壊し、もう一つの陣営である資本主義は、一時普遍的な価値であるような繁栄を納めながらも、最近は貧富 の格差の増大など、様々な矛盾を露呈する中で、来るべき社会は資本主義の進化形か、はたまた社会主義に ヒントを求めるべきなのか、本書が思考の方向付けを与えてくれるかも知れないと、思ったからです。 さて実際に読んでみると、私は上述のように、どこまで理解出来たのか定かでありませんが、マルクスを語る ためにカントが持ち出されたのは、物事を批評する視点として定点2点の差違を比較するのではなく、対象と 移動を続ける比較物との視差に、目を向けるべきであるということを、カントの哲学を通して提示し、その 移動と視差による批評を、マルクスの「資本論」に応用して、彼の社会主義理論を解明するものであると、 解釈しました。 この解釈によると、社会主義の経済活動の肝は、生産活動にあるのではなく労働活動にあり、また企業の労働 者は、消費者となる時に企業経営者に対して優位な立場となり、従って、これからの来るべき社会は、労働 組合と消費組合が融合したような共同体が上位に立ち、個別の国家を解体して、主体となるべきである、と いうものです。 これだけでは漠然としているように思われますが、確かに最近のニュースを見ていると、女性や性的マイノリ ティーなど、社会的弱者の地位向上運動や、環境保護活動、あるいは被災地での有志のボランティア活動など に、自発的な共同体による社会活動の萌芽を、見る思いがします。 これらの活動が、本当に社会全体を動かすようなムーブメントに発展するのか、今はまだ雲をつかむような 思いですが、少なくとも、これらの活動の報道に触れる時、最近感じることの少なくなった、将来への希望を 感じさせられるように思います。