2015年5月29日金曜日

漱石「それから」における、映像が眼前に浮かぶような情景描写

2015年5月28日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第四十一回)に、実家で兄嫁から金を借りるのに失敗した代助が、自分の
住まいに帰る途中の情景を描写した次の記述があります。

「その夜は雨催の空が、地面と同じような色に見えた。停留所の赤い柱の
傍に、たった一人立って電車を待ち合わしていると、遠い向うから小さい
火の玉があらわれて、それが一直線に暗い中を上下に揺れつつ代助の
方に近いて来るのが非常に淋しく感ぜられた。乗り込んで見ると、誰も
いなかった。黒い着物を着た車掌と運転手の間に挟まれて、一種の音に
埋まって動いて行くと、動いている車の外は真暗である。代助は一人明るい
中に腰を掛けて、どこまでも電車に乗って、終に下りる機会が来ないまで
引っ張り廻されるような気がした。」

目的を果たせず意気消沈した代助の心模様を反映した、彼の孤独と
寂寥感がにじみ出たような、幻想的な情景描写です。宮沢賢治の
「銀河鉄道の夜」や、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の中の主人公が
列車に乗るシーンが思い浮かびます。

汽車や電車といった乗り物は、特に車窓から見える風景が闇に包まれて
いる夜においては、漆黒に閉ざされた前景を切り裂くように伸びる鉄路を、
ただひたすらに進んで行く、乗客にとってはある意味他人任せの道行が、
心細さを感じさせることが往々にあるものです。漱石は、そのような人間の
心情を繊細に、見事に描き出していると、感じました。この文章に続く地震の
描写も、印象的です。

2015年5月27日水曜日

漱石「それから」における、代助が結婚に興味を示さない理由

2015年5月27日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第四十回)に、嫂の梅子に一刻も早く嫁を迎えるようにと勧められて、代助が
なかなか乗り気になれない理由に思いを巡らす、次の記述があります。

「ただ、今の彼は結婚というものに対して、他の独身者のように、あまり興味を
持てなかった事は慥である。これは、彼の性情が、一図に物に向って集注
し得ないのと、彼の頭が普通以上に鋭どくって、しかもその鋭さが、日本現代の
社会状況のために、幻像打破の方面に向って、今日まで多く費やされたのと、
それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分
多く知っているのとの三ヶ条に、帰着するのである。」
「 代助は今まで嫁の候補者としては、ただの一人も好いた女を頭の中に指名
していた覚がなかった。が、今こういわれた時、どういう訳か、不意に三千代と
いう名が心に浮かんだ。」

人間は往々にして、自分の本心が自分では分からないものです。代助は
自身が結婚したいと思わない理由をあれこれと考察していますが、梅子の
問いかけからふと、三千代のことが心に引っ掛かっていたことに気づかされます。

知識人の代助の結婚に対して淡白な理由付けは、なかなか論理的でたいそう
ですが、実は三千代のことが心の奥底にわだかまっていたのです。

人は何気なく、思いもよらぬ自分の心情に気づかされた時、その印象は鮮やか
なものとして、心にずっととどめられるということが、よくあるように感じられます。
代助の心の化学反応はいかに進展するのでしょうか?

2015年5月24日日曜日

庭のアジサイが今年初めて咲きました。

正確にはガクアジサイのガクが色づき開いたということでしょうか?アジサイは
日本原産の植物ということで、全体が装飾的な花序に覆われているいわゆる
一般的なアジサイよりも、私は慎ましやかな日本の野草木の面影を残す、
ガクアジサイが好きです。

アジサイは落葉樹の一種で、葉が硬く、しっかりしている外見にも関わらず、
冬には全ての葉を落とし、裸木になります。前年の花が終わった時点で、
次年の花芽を残して剪定し、翌年の開花に備えます。

それ故に、翌春に新しい葉が元気に伸びて、蕾が付いた時にはその年の花の
開花も約束されて、何がしかほっとした気分になります。それでも、小さな粒の
ような花の塊と花序がほんの少しずつゆっくりと成長して行く中で、私は花序が
色づき開くのを知らず知らずのうちに待ちわびていたのでしょう。今朝それを
発見した時には、思わず嬉しくなりシャッターを切りました。

さて今年の五月は、ゴールデンウィークこそほぼ晴天に恵まれましたが、、
季節外れの早すぎる台風到来と、不順な天候であった印象が強く残っています。

その中で来週には六月となるこの時期に、今年もアジサイが花開いてくれた
ことは、季節の確実な過ぎ行きを実感させてくれました。

梅雨はどんよりと曇って、じめじめとした日々が続きますが、アジサイの涼やかな
姿を見ていると、たまにはしとしとと降る雨を眺めて、終日ぼんやりとしているような、
ちょっとした贅沢な時間を夢想してしまいます。

2015年5月22日金曜日

京都文化博物館「今日に生きる琳派の美」を観て

2015年は、本阿弥光悦が徳川家康から鷹峯の地を拝領して400年ということで、
京都では琳派400年の様々な行事が開催されています。この展覧会はその一環
として、京都日本画家協会と京都工芸美術作家協会に所属する作家約200名が
「琳派」をキーワードに制作した新作を展示する合同展です。

「琳派」というと私たち京都人にとっては、誰もが知っているようで、いざそれを
定義するとなると、漠然としていてなかなか難しいように思われます。そこで
私なりの「琳派」に抱くイメージを言葉にしてみると、町人の美意識から生まれた、
時代を隔てて受け継がれる、装飾的で優れたデザイン性を持つ美術工芸潮流
ということになります。この基準から本展の出品作を観て行くと、興味深く感じ
られる部分が多くありました。

それはそれぞれの作家が、「琳派」というテーマをどのように捉えて制作して
いるかという部分です。私は大きく分けて三つの捉え方があるように感じました。
一つは金銀箔に花鳥風月という形としての「琳派」を踏襲しようとした作品。
二つ目はわれ関せずと日頃の作風通りを貫いた作品。三つ目は現代における
「琳派」の意味を自分に引き付けて考え、琳派的美意識と自らのそれを融合させ
ようと試みた作品。それぞれに優れた作品がありましたが、私にとって印象的な
作品は三つ目のものに多く見受けられました。

いずれにせよ、それぞれの作家が与えられた命題にどのように対応して制作
しているのかということは、恐らくその作家の創作姿勢や作風とも密接に関係して
いると想像されて、よく見慣れた作家の今まで知らなかった一面を垣間見るようで、
興味が尽きませんでした。

2015年5月19日火曜日

宮澤正明監督 映画「うみやまあひだ」を観て

伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮を通して、日本人の根底にある自然観、
宗教心を明らかにしようとする、ドキュメンタリー映画です。

二十年毎に社を全て新しく建て替えて神霊を移すという儀式は、現代人の
感覚からすると随分無駄が多いようにも感じられますが、本作品を観進めて
行くに連れ、次第にその儀式が長い年月を基準とする視点に立つと、自然の
循環という意味合いにおいて、理に適ったものであることが明らかになって
行きます。

すなわち伊勢神宮は、広大な神域の森の中に社殿が置かれているのですが、
その森は社殿の用材を恒久的に供給するために、絶えずきめ細かい手入れが
行われています。

具体的には、上質のヒノキ材を産出するために育成環境を整え、気の遠くなる
年月をかけて育て上げます。ようやくその木が伐採されると、次々代のために
新たな成育が始められるという具合です。その結果神域の森は理想的な
植生を備え、多様な生き物を育み、豊かで美しい水を下流域に供給することに
なるのです。

さて、その豊かな森から流れ出した水は海へと至り、沿岸部にもう一つの
海中の森ともいえる豊饒な海藻の植生を作り出します。その海水はまた、
多様な生物を養うのです。つまり伊勢神宮の式年遷宮が、結果として長い
サイクルの自然循環を守り、そのような仕組みこそが、日本人の古来の
自然観に基づく信仰となっていたのです。

この映画を観終えてまず私が感じたのは、我が国固有の宗教である神道という
ものが、明治時代以降二度に渡って歪められたのではないか、ということです。
すなわち、明治政府は欧米に伍する急激な近代化を推し進めるために、天皇を
中心とする中央集権的な国家神道を生み出し、第二次世界大戦敗戦後には
そのような神道の在り方が、侵略思想の元凶として処断されたその結果、
私たちは神道が本来有する森羅万象あらゆるものに対する謙虚さ、その心の
持ち方から生まれる礼節といった徳目を見失ってしまったのではないか?

この映画は忘れがたい美しい映像、音楽と共に、この重い問いを観る者に
投げかけて来るように感じました。

2015年5月17日日曜日

漱石「それから」における、代助の鬱屈と諦念

2015年5月14日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第三十一回)に、代助がここ三、四年の心境の変化について語る、次の
記述があります。

「代助が真鍮を以て甘んずるようになったのは、不意に大きな狂瀾に
捲き込まれて、驚きの余り、心機一転の結果を来たしたというような、小説
じみた歴史を有っているためではない。全く彼れ自身に特有な思索と
観察の力によって、次第々々に鍍金を自分で剥がして来たに過ない。
代助はこの鍍金の大半をもって、親爺が捺摺り付けたものと信じている。
その時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を
受けたものは、みな金に見えた。だから自分の鍍金が辛かった。早く金に
なりたいと焦って見た。ところが、他のものの地金へ、自分の眼光がじかに
打つかるようになって以後は、それが急に馬鹿な尽力のように思われ
出した。」

この三、四年で、代助も変われば、平岡も変わりました。漱石は真鍮、鍍金、
金、地金と、言い得て妙の巧みな比喩を駆使して、代助の倦怠と諦観を
表現しています。

漱石自身が、「それから」の代助は「三四郎」の主人公のそれからの姿である、
という趣旨のことを述べているところから推し量れば、さしずめ「三四郎」が
屈託ない青春時代の悩みを描く小説であれば、「それから」は挫折した後の
若者の悩みを描く小説と言えるでしょう。

そんな代助の心がこれからどのように波立って行くのか、だんだん楽しみに
なって来ました。

2015年5月15日金曜日

漱石「それから」に見る、当時の社会状況

2015年5月13日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第三十回)に、失業している平岡が東京で見つけた借家の様子について、
代助が印象を語る次の記述があります。

「平岡の家は、この十数年来の物価騰貴に伴れて、中流社会が次第々々に
切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表した、尤も粗悪な見苦しき
構えであった。とくに代助にはそう見えた。
 門と玄関の間が一間位しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、
横にも同じような窮屈な家が建てられていた。」
「今日の東京市、ことに場末の東京市には、至る所にこの種の家が散点して
いる、のみならず、梅雨に入った蚤の如く、日ごとに、格外の増加律を以て
殖えつつある。代助はかつて、これを敗亡の発展と名づけた。そうして、
これを目下の日本を代表する最好の象徴とした。」

代助の感想は、漱石の思いでもあるでしょう。1900年代初頭の日本は、
日清、日露と続いた戦争の結果対外債務が膨張し、深刻な不況に陥って
いたそうです。また急激な工業化のひずみも生じて来ていたようです。
貧富の格差は広がり、中間所得層も次第に苦境に立つ人が増えていったと
いいます。

翻って私たちの暮らす今日の我が国を見てみると、長引く不況の中、中間
所得層の没落と貧富の格差の増大が言われて久しい状態です。時代は
違い経済条件も違えど、私たちは不況に直面し、平岡と同じような苦境に
直面する人も多く存在する。

人間の社会とはそういうものだ、とも言えるでしょうし、漱石が「それから」を
通して私たちに訴えかけて来るものは、100年を隔ててなお色あせない
とも言えるのではないでしょうか?

2015年5月12日火曜日

母の日は近江牛のヒレステーキで祝いました。

話はさかのぼりますが、ゴールデンウィークの休暇中に一度はドライブに
出かけようと考えて、湖東の近江八幡市まで行くことに決めました。

当日は、文字通り五月晴れと言えるほどの好天に恵まれ、道中の新緑も
とても美しく、往路は八瀬、途中、琵琶湖大橋を渡って湖岸沿いという
ルートを選びましたが、大原で地域のお祭りに遭遇して道が渋滞したのと、
琵琶湖大橋の入り口が少し混雑した以外は、比較的スムーズに車も
進んで、特に大橋から見晴らす光り輝く琵琶湖湖面の情景や、湖岸沿いに
吹き渡る爽やかな微風を堪能しながら、ドライブを楽しみました。

さて、近江八幡まで行くことにしたもう一つの目的は、ステーキ肉を買うこと
でした。この地は近江牛の本場で、ネットで調べた、創業明治二十九年の
カネ吉山本でヒレステーキ肉を買おうと思ったのです。

それというのも、今年は母の日に、母に美味しいステーキを食べてもらおうと
考えたからです。目的地に到着すると早速、そのお店に向かいました。肉を
注文して、クール便で母の日前日に家に着けてもらうように依頼します。

当日、冷蔵庫から取り出した肉の包みを開けると、一つずつラッピングされた
美味しそうなステーキ肉が顔をのぞかせました。塩、胡椒をして、30分ほど
寝かせてからフライパンに並べて焼き上げます。

ミディアムに焼き上げると、美味しそうな香りが鼻をくすぐり、口にほおばると
適度ななめらかな歯ごたえと共に、くせのない豊かな旨みがパッと広がり、
すっかり牛肉の味を堪能しました。母も大変喜んでくれて、少し出費は痛い
所ですが、家庭で楽しめる良い母の日になりました。

2015年5月10日日曜日

京都文化博物館別館「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」を観て

今回は、京都文化博物館別館の会場に足を運びました。

この建物は、1906年完成のどっしりとしたレンガ造りの洋風建築で、
1965年まで日本銀行京都支店として使用され、国の重要文化財に指定
されています。内部も当時のままに保存されていて、その時代を感じさせる
木製カウンターを通して迎えてくれるのが、森村泰正の8点連作「侍女たちは
夜に甦る」です。

この連作は、ベラスケスの名画「ラス・メニーナス」が飾られた閉館後の
プラド美術館を舞台にした作品で、歴史上の名画の登場人物などになり切る
セルフ・ポートレイトの写真作品で有名は森村が、謎多き名画と言われる
「ラス・メニーナス」に挑んだ作品です。

このベラスケスの絵画は周知のように、スペイン王族の肖像を描く画家本人が
描きこまれているという、入れ子状の複雑な構成になっていて、画中に
描かれている王女を始め、彼女を取り巻く人びと、あるいは鏡に映る国王夫妻、
はたまた画家本人と、絵画の主題とその関係性に今なお多様な解釈が
存在しますが、森村は8点の背景、場面設定、登場人物の配置を微妙に変えた
「ラス・メニーナス」とその周辺において、生真面目ゆえにユーモアを湛えた扮装、
面立ちで、それぞれの人物に代わる代わるなり切ることによって、観る者に
知らず知らずのうちに親近感を抱かせ、私たちの既存の権威主義的な価値観を
巧妙に転換させてくれるように思われます。

また彼が画面中の誰に扮装するかによって、個々の「森村ラス・メニーナス」の
印象は不思議な変化を遂げ、観る者は上質のミステリーを読むような胸の
ざわめきを感じさせられます。

さらに今回の展示は、歴史的な空気を湛えた場の雰囲気が作品に影響を及ぼす
部分も大きく、作者もそれを計算し尽くした展観に違いありませんが、謎多き
「ラス・メニーナス」と閉館後のプラド美術館という設定、時間を閉じ込めたような
旧日本銀行京都支店の佇まいが反響して、私にとって忘れがたい、森村作品を
観る機会となりました。

2015年5月8日金曜日

漱石「それから」に見る、代助の世間知らず

2015年5月6日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第二十六回)に、代助が三千代のために兄の誠吾に金を無心する場面で、
次のような会話が交わされます。

 「で、私も気の毒だから、どうにか心配して見ようって受合ったんですがね」
といった。
 「へえ。そうかい」
 「どうでしょう」
 「御前金が出来るのかい」
 「私ゃ一文も出来やしません。借りるんです」
 「誰から」
代助は始めから此所へ落すつもりだったんだから、判然した調子で、
 「貴方から借りて置こうと思うんです」といって、改めて誠吾の顔を見た。
兄はやっぱり普通の顔をしていた。そうして、平気に、
 「そりゃ、御廃しよ」と答えた。

代助は平岡夫妻への義理立てを、兄から金を借りることによって、簡単に
済ませようと考えています。自分自身が実家に養われる身ですから、当然
かもしれません。しかし世慣れた兄の方は、こんなことのために安易に金を
貸すべきではないことを、しっかりとわきまえているのです。

私の人生を振り返ってみても、若い頃にある親しい友人が起業をすることに
なって、保証人になるよう頼まれたのですが、随分考えた末、もしもの時に
負担すべき責任額が当時の私の能力を超えていたので、断った経験が
あります。

その時は大変悩み、その友人に対して申し訳なく思うと同時に、自分の
無力さを恥じましたが、結果として起業後彼が急逝して、彼への信義に
対しては弁解仕様がなくとも、当時の私の判断は間違ってはいなかったと、
感じたことを思い出します。

そのような過去の自分の経験に照らしても、この場面での代助は随分と
無責任で世間知らずと、感じました。

2015年5月6日水曜日

龍池町つくり委員会 16

5月5日に第34回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

まず委員長より、学区の新住民に配布する、案内冊子の素案についての
説明がありました。委員長の意向としては、学区の歴史を知ってもらう
ことに重きを置くべきということで、引き続きそのような形で冊子作りが
進められることになりました。

その中で委員の一人から、印刷物等を配布してもマンション住民には
なかなか行き渡らない現状から、ホームページなど、インターネットを利用した
広報活動も合わせて行うべきではないかという意見が出ました。
谷口先生より、他学区のネット利用の取り組みの事例の説明を頂いて、
私たちの学区でも活用すべきという意見が大勢をしめましたが、問題は、
現状ではそれを担当する適当な人材が見当たらないということで、新たな
委員会メンバー、あるいはボランティアで参加してくれる人を早急に見つける
必要があるという、新しい課題が浮かび上がって来ました。

また谷口先生より、チベット難民の少年を描いた「オロ」というドキュメンタリー
映画を、先日ネパールで発生した大地震の被災者支援チャリティー上映会
として、この龍池学区内で開催出来ないかという提案があり、学生さんに
お手伝い頂いている京都外国語大学、谷口先生の同志社大学、そして龍池
町つくり委員会の共催で実施出来るよう、前向きに進めることになりました。

最後に先日開催された「大原たついけ茶話会」の結果報告が行われ、
龍池側を上回る35~36名の大原地元住民の方の参加があり、地域に伝わる
八朔踊りをご披露頂くなど、新たな交流の始まりを感じさせる兆しが生まれた
ということです。

2015年5月5日火曜日

京都市美術館「PARASOPHIA:京都国際現代美術祭2015」を観て

京都初の国際現代美術祭、PARASOPHIAが市内8か所を会場として開催
されています。その祝祭気分の一端を味わってみたいと、メイン会場の
京都市美術館に向かいました。

まず気付かされたのは、この美術館の場合通常の美術展では、館内の
一部の区画が限定されて会場として使用されているのに、本展では、一階、
二階はもちろん、一部地階、エントランスに至るまで会場になって、
バラエティー富む作家の作品がゆったりと展示され、祭りに相応しい
華やかさを醸し出していることです。

しかも展示のテーマの一つには、「美術館の誕生」というこの美術館
そのものの歴史を跡付ける企画もあって、言わば会場そのものが展示物と
いう重層的な構成になっています。それゆえに観る者は、この
京都市美術館という普段慣れ親しんだ建物の良さ、有り様を再発見する
ことにもなるのです。

さて本展の展示の中で、一番私の印象に残ったのは蔡國強のコーナーです。
北京オリンピック開会式の花火の演出などで有名な蔡の展示は、一階正面
入り口から入ってすぐの中央の広いスペースにあり、会場の真ん中には
竹材を使って六角形七段に組み上げられた塔(パコタ)が聳えています。

この塔は、平安京が都市計画策定においてモデルにした、長安の大雁塔を
イメージしているといいますが、無論竹組の素朴で簡素な作りゆえに、
威圧感はみじんもありません。しかもパコタの竹材には、派生プロジェクト
「子供ダ・ヴィンチ」で、地元の子供たちが身の回りにある材料で自由に制作
した作品が飾られ、いかにも軽やかで華やいだ雰囲気を演出しています。

その塔の周辺には、中国各地の農民が日常の身近な素材で自作した、
「農民ダ・ヴィンチ」のプロジェクトのユーモラスなロボットなどが展示されて
います。

また私が特に感銘を受けたのは、蔡がブラジルの貧困地域の子供たちと
一緒に凧を制作し、揚げて遊ぶ様子を記録した映像で、子供たちの瞳の
輝きと蔡の屈託ない笑顔に、ものを作り用いることへの純粋な喜びが溢れて
います。

展示全体から発散される和やかな気分に、この世に生き続けることへの
希望をもらう思いがしました。

2015年5月2日土曜日

漱石「それから」における、代助の色彩感覚と青木繁

2015年4月30日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第二十二回)に、代助の色彩の好みを記する次の文章があります。

「代助は何故ダヌンチオのような刺激を受けやすい人に、奮興色とも
見做し得べきほど強烈な赤の必要があるだろうと不思議に感じた。
大助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好い心持はしない。出来得るならば、
自分の頭だけでもいいから、緑のなかに漂わして安らかに眠りたい位で
ある。いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている脊の高い
女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持ちに出来て
いると思った。つまり、自分もああいう沈んだ落ち付いた情調におりたかった
からである。」

漱石が、作品発表当時の芳しくない世評に反して、青木繁の絵画の
理解者であったことは、青木の回顧展の解説で目にしたことがあります。
早熟の天才画家青木繁は、その短い絶頂期には、それまでの日本の
西洋画とは一線を画する独自の光輝を放つ作品を生み出したと、
その展覧会を観て改めて感じさせられました。

しかし上述のように、早く生まれ過ぎた天才は世間の理解を得られず、
その不遇が彼を死へと駆り立てることにもなります。彼の絵画が、今日の
評価を確定させるのは、死後時を経てからのことでした。

漱石は独自の慧眼で、発表当初の青木の作品に、まったく新しい日本的な
西洋画を見出したのではないでしょうか?そして、自身西洋的な価値観と
日本的なそれとの間で苦悩していた彼は、青木の絵画に共通の問題意識を
感じて、共感を覚えたのではないかと、私は想像します。

また、イタリア人で激情家のダヌンツィオが赤と青を好むのに対して、代助が
自分は緑を好むと告白する作中の場面は、彼の日本人的な情緒を表している
とも感じました。