2015年12月30日水曜日

漱石「門」における、子供に関する御米の心痛と罪悪感

2015年12月29日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第六十三回)に、折角子供を授かっても無事に出産出来ないことに
対する御米の苦悩と、一人で背負い込んでしまっている罪悪感に
ついて記する、次の文章があります。

「御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい
運命の厳かな支配を認めて、その厳かな支配の下に立つ、幾月日の
自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、
時ならぬ呪咀の声を耳の傍に聞いた。」

御米にとっては、本当に気の毒なことです。出産に対する医療技術が
まだ未熟で、現在なら助かる命が失われてしまうという面もあります。

また当時の女性の社会的立場という意味においても、子供を産むことが
出来ないということに対しては、母親が一身に責任を感じなければ
ならないことにもなるでしょう。

その上に、宗助と御米の結婚が倫理観に背くものであり、さらには
この当時には、姦通罪というものが存在して、二人に対する世間の
風当たりが相当強かったことを勘案すると、彼女のプレッシャーは
並大抵ではなかったと想像されます。

宗助は御米のことを大切に考えていますが、その辺りの気遣いには
残念ながら疎いようです。男と女のどうしようもない隔たりということで
しょうか?

2015年12月28日月曜日

井上章一著「京都ぎらい」を読んで

旧洛外、嵯峨育ちの国際日本文化研究センター教授、井上章一による
愛憎入り混じる京都論です。著者ならではのユーモア溢れる、歯に衣着せぬ
物言いが、全編に心地よいリズムを刻みます。

私が本書を読み始めてまず感じたのは、何とも言えぬおもはゆい想いでした。
というのは、私は生まれも育ちも洛中の人間で、自分自身は洛中、洛外の
別をことさら意識していないつもりでいますが、今現在でも私より年かさの
周囲の洛中人の多くには、確かに強い洛中特権意識があるように感じられる
ことがあります。

それは伝統ある都の自治を担って来たという、町衆の誇りに由来するもので
あり、そのような気概によって連綿と町が支えられて来たのも紛れもない
事実でしょう。

しかし今日の交通、通信、情報の飛躍的な発展によってもたらされた開かれた
社会環境にあっては、古い都市住民に残る特権意識は、新しく入って来る
人々との間に、軋轢を生みかねません。

現に私の暮らす地域でも、旧来からの住民と最近急増するマンションに
引っ越して来た新住民との意思の疎通を計ることが、緊急の課題となって
います。もちろん、この場合においても、旧住民の特権意識だけが新住民との
交流を妨げているとは思いませんが、その要因の一つであることは間違い
ないでしょう。

さて同じ京都市の市民でも、洛外出身、在住の人が、洛中の人間に感じ取る
軽視されているという腹立たしさは、合わせ鏡としてこの地の保守性を焙り
出します。私は、その事実をこの本から突きつけられて、困惑したのです。

本書の前半、洛中人や僧侶の特権意識を語るくだりでは、著者は京都の
旧弊に物申す目的でこの文章を綴っていると感じられましたが、後半に入り
この都市の現在に至る歴史的経緯に話が及ぶと、京都が長い歴史を有する
都であるだけに、古い時代の時々の為政者が施した政策が、今なお
この都市の佇まいや住民の意識に影響を及ぼしていることが見えて来ます。

つまり長い風雪に耐えた歴史的建造物だけではなく、思考方法、倫理観、
美意識など京都人の気質のすべてが、長い有為変転する歴史の中で培われた
のです。

この部分まで来ると、本書は俄然読み物としての密度を増し、優れた都市論、
社会生活を営む存在としての人間論になっていると、感じられました。
井上章一、決して侮るべからず。

2015年12月24日木曜日

鷲田清一「折々のことば」257を読んで

2015年12月21日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」257に
評論家大宅映子の関西の私大での講演から引いた、次のことばが
引かれています。

 死ぬとわかっていてなぜ人は生きていけるのか。その根源的な理由を
 考えるのが、文学部というところです。

昨今は学生の間でも、工学系など実践的な学部がもてはやされて、どうも
文学部などの直接には社会に出てすぐに役立たない学問は、敬遠され勝ち
なようです。

先般も文部科学省から国立大学に対して、人文科学系の学部の廃止、
転換の通達が出て、少なからぬ反響を呼びました。

私自身は経済学部を出て、正直社会に出た時には、自分が携わる末端の
仕事とは余りにもかけ離れていると感じました。もっとも、当時としては
それほど将来の展望もなく、ただ就職に有利ということで、この学部を
選択したのが実情ですが・・・。

しかし今になってみると、無論経済学が身を立てるスキルになっているとは
到底思われませんが、経済学的なものの考え方や、その学部で一般教養
として学んだ知識は、確かな生きるよすがや、心の滋養になっていると感じ
られます。

とにかく近頃は、何につけても合理的かつ実践的なものが求められ勝ち
ですが、長い目で見る人生において、さらには社会全体の仕組みを円滑に
動かすためにも、人文科学系の学問も必要なのではないか?このことばを
読んで、そんな思いを強くしました。

2015年12月22日火曜日

田中康弘著「山怪 山人が語る不思議な話」を読んで

私たちはどうして今、伝承に基づく不思議な話、怪しい話に惹きつけられる
のでしょうか?

それは、今日の合理的価値観が支配する日常生活においては忘れ去られ、
一顧だにされないものです。しかしかつては人々は、これらの怪しげな
出来事を当然のことと感じ、それらの不思議を受容しながら生活して来ました。
それゆえ、これらの伝承は残ったのでしょう。

ではどうして、それらの伝承は生まれたのか?根本には、この世の事象の
すべてに人間の理解が及ぶ訳ではないという考え方が、広く人々に共有
されていたことが挙げられると思います。

そのような大前提があるだけに、人は簡単には説明のつかない自然の脅威、
因縁にまつわること、倫理観に基づくことなどを、このような伝承に仮託して
受け継いで来たのでしょう。そしてそれらの語る事柄は、人びとの心の深い
ところに留まり、知らず知らずのうちに各人の生活に影響を及ぼしていたに
違いありません。

近代化と科学技術の発達によって、私たちは次第に合理的に説明の付くもの
だけに信を置くようになり、それと同時に前述のような伝承は単なる迷信、
前近代的なものの考え方の残滓と、軽んじられるようになりました。

しかしそのような人の心の狭量化は、精神世界の奥行を狭め、殺伐とした
ものにして行ったように感じられます。つまり本来人間の生活は、目に見える
もの、合理的なものだけによって、成り立っているのではないからです。今
私たちがこのような伝承に心惹かれるのは、そんな背景があると思われます。

本書は、山人が語る不思議な話によって構成されています。山は、近代化に
よって平地の緑が急速に失われて行っても、まだ荒々しい自然が最後まで
残された場所で、狩猟など自然と直に対峙する生業を営む人々が、今なお
存在する地です。

そのような地域では、伝承の精神世界は彼らの日常生活の中に脈々と
受け継がれて来たのでしょう。つまり我々がこれらの話に魅せられるのは、
失われた自然に対する憧憬という部分もあるのでしょう。

日本のこのような性格の伝承には、狐や狸に化かされる話が多いのですが、
これらの動物が私たちにとって身近であったのはもちろん、特に狐は
稲荷信仰とも密接に関わるように、神の使いと見做されていたのか、
いずれにせよ狩猟対象にある種の禁忌や恐れがあることは、逆に健全な
ことではないかと感じました。

2015年12月20日日曜日

鷲田清一「折々のことば」253を読んで

2015年12月17日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」253に
作家山田稔の「八十二歳のガールフレンド」から引いた、次のことばが
あります。

 人は思い出されているかぎり、死なないのだ。思い出すとは、呼びもどす
 こと。

実は私は、それほど信心深くはありませんが、多少は霊魂の存在を信じて
います。

というのは今までに二度、私に目をかけて下さった方が亡くなった時に、
その事実はまだ知らされていないにも関わらず、二回とも丁度室内に
居たのですが、突然辺りが何とも言えないぬくもりと、かすかな温かい光に
包まれて、前方上方にけむりのようなもやもやしたものが、私を見守って
くれているような感覚を味わったことがあるからです。

それはあるいは、虫の知らせに近いものかも知れませんが、私は、亡くなった
方の私を思ってくださる気持ちの表れと、信じています。

同様に上述の経験とは、あの世に旅立った人と生きている者の立場は
逆転するにしても、亡くなった人を思い出し、話題にするということは、
今を生きる者の心の中に確実にその人が存在し続けている、ということで
しょう。

自分の体の血肉の一部となっているから、人はかけがえのない今は亡き人を
思い出すのに違いありません。

2015年12月16日水曜日

漱石「門」における、御米の症状を心配しながら家に帰る宗助

2015年12月16日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第五十五回)に、勤め先の役所から、御米の具合を気遣って早引けして
帰る宗助の心の働きを記する、次の文章があります。

「 電車の中では、御米の眼が何時頃覚めたろう、覚めた後は心持が大分
好くなったろう、発作ももう起こる気遣なかろうと、凡て悪くない想像ばかり
思い浮べた。何時もと違って、乗客の非常に少ない時間に乗り合わせた
ので、宗助は周囲の刺戟に気を使う必要が殆んどなかった。それで自由に
頭の中へ現われる画を何枚となく眺めた。そのうちに、電車は終点に来た。」

宗助の御米に対する思いやりや優しさが、よく描写されている文章です。
また彼が、これまでに御米の病状に接した経験にもよるのでしょうが、少し
楽観的であるようにも感じられます。あるいは、そのように考えて、自身で
自分を励ましているのかも知れません。

乗っている電車がいつもより空いているので、あれこれ想像の画像が浮かぶ
というのも、いい得て妙と感じさせられました。車内という閉ざされた空間の
中で、それでいて気にならない適度な人数の乗客がいて、また自身は体を
たとえば座席に預けて所在なく佇んでいる時、空想が頭を巡るということは
ままあることです。ましてや、気がかりなことがあれば、なおさらでしょう。

漱石が鉄道を描く場面には、しばしば登場人物の心の動きとからませて、
秀逸だと感じさせられることがあります。

2015年12月14日月曜日

滋賀県立近代美術館「生命の徴ー滋賀の「アール・ブリュット」」を観て

滋賀県では、福祉施設での長年の造形活動の取り組みによって、近年注目
される「アール・ブリュット」という美術概念に照らしても、独特の成果を収めて
来たといいます。

「アール・ブリュット」は、フランスの画家ジャン・デュビュッフェが提唱した、
正規の美術教育を受けていない人による純粋な美術活動及び作品ー生の
芸術ーという概念ですが、その中でも大きな位置を占める障がいのある人々の
造形活動において、この地は有力な作家を生み出しています。

2019年に、「アール・ブリュット」を新たにコレクションの核として加える計画の
滋賀県立近代美術館が、その指針を示す目的で開催した展覧会です。

私にとって、「アール・ブリュット」と名打つ、あるいは障がいのある人の
造形活動を、美術館で観るのは初めての体験で、正直なところどういう
受け止め方で作品に向き合うべきか、最初は戸惑いました。

当初、作品に添えられた作者や作品の説明書きも相まって、特別な存在の
人が、その創作活動なくしては自らの生を持続出来ないような切実な思いを
持って、文字通り身を削るように制作した作品という先入観が邪魔をして、
純粋にその場にある美術作品を楽しむという気分になれなかったのですが、
観つづけて行くうちに、作者自身の根源的な情動のいかなる雑念にもゆるがせ
られない吐露として、次第に驚きと感動を禁じえなくなりました。

その作品には、原始美術に通じるような大地に根差した力強さ、おおらかさが
あり、他方自分の身内より湧き出て来るものを、何としても形にとどめようと
する、気の遠くなるほどの執拗さ、ち密さがあります。

考えてみれば、文明の発達と共に私たちが失いつつある、原存在としての
人間の姿を、これらの作品はもう一度問い直して来る力を持っているのです。

近年は、鋭敏な感覚の持ち主である一部美術家も、その魅力に気付き、彼らと
障がいを持つ作家とのコラボ作品も生み出されて来ていることが、本展でも
示されます。この展覧会は、「アール・ブリュット」の芸術を先入観を排して
楽しむ術を与えてくれたという意味において、私にとって忘れられないものと
なりました。

2015年12月11日金曜日

漱石「門」における、宗助の家に同居し始めた小六の不安

2015年12月8日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第五十回)に、叔父の佐伯が亡くなって、最早そちらで学費や生活の面倒を
見てもらえなくなった小六が、やむをえず宗助の家に同居することになり、
将来への不安が御米との会話に顔をのぞかせる、次の記述があります。

「 小六はその時不慥な表情をして、
  「そりゃ安さんの計画が、口でいう通り旨く行けば訳はないんでしょうが、
段々考えると、何だか少し当にならないような気がし出してね。鰹船もあんまり
儲からないようだから」といった。御米は小六の憮然としている姿を見て、
それを時々酒気を帯びて帰って来る、どこかに殺気を含んだ、しかも何が癪に
障るんだか訳が分らないでいて甚だ不平らしい小六と比較すると、心の中で
気の毒にもあり、また可笑しくもあった。」

小六もようやく、佐伯の息子の安さんが夢ばかり追いかけて、実際にはあまり
頼りにならない人物であることに、感づき始めたのでしょう。

彼には自分の将来に対する不安、あるいは身のやり場のないことへの大いなる
不満があり、酒でも飲んで気を紛らわせるしかないのでしょう。

御米はその小六の気持ちが十分に分かっていて、しかし宗助や自分では救って
やれないことが不甲斐なく、またこの事態の遠因には自分たちのあの事件がある
ことも罪悪感を募らせ、ますます自らを苛むのでしょう。

何か彼女に同情を禁じえなくなって来ました。

2015年12月10日木曜日

鷲田清一「折々のことば」244を読んで

2015年12月7日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」244に
京都生まれの経済学者大竹文雄の次のことばが引かれています。

 まちの人が求めるのは、そこにないもの。よその人が求めるのは、
 そこにあるもの。

このことばの説明に、京都人は、夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする気候
ゆえに、温和な気候や空調のきいたマンション生活に憧れる、と述べられて
いますが、現代の京都に暮らす私としては、最近は温暖化の影響か寒さも
随分ましになり、また町家といえどもエアコンが設置されているので、かなり
過ごしやすくなりました。

またこの頃は市の中心部に、どんどんマンションが建設されているので、
そこに住む人々には、暑さ、寒さの悩みもそれほどではないでしょう。

それよりも私は、古い町家暮らしのわずらわしさとしては、あちこち老朽化
した箇所を補修しなければならないこと、季節季節の設えをかなり手を
抜いているとはいえ一応準備しなければならないこと、植木屋さんに
手伝ってもらいながらも庭の手入れをしなければならないこと、であると
実感しています。

しかしそれらの日々の義務や雑務には、わずらわしさと同時に、ふとした
喜びや、安らぎもあり、まんざら悪くはないとも感じます。

ましてや、よその人からそれらのことに関して感心されたり、ほめられると、
なんだかおもはゆく、満ち足りた気分になります。

2015年12月7日月曜日

尾形光琳「風神雷神図」、酒井抱一「夏秋草図」両面復元複製屏風を観て

琳派400年記念のプロジェクトで、現在はそれぞれ独立した一曲一双の屏風
として保存されている、光琳「風神雷神図」と抱一「夏秋草図」を、コロタイプ
技法で複製して、本来の表面「風神雷神図」、裏面「夏秋草図」の一体の
屏風に復元した作品を、京都文化博物館で観ました。


画像は表裏を正面から写したもので、「風神雷神図」の右側の風神の裏が
「夏秋草図」の左側の秋草になっています。

コロタイプ作品に実際に接すると、実物に近い臨場感があり、写真撮影が
可能なのはもちろん、すぐ目の前まで近づいて観ることが出来、新たな
発見がありました。

まず風神におどろおどろしい存在感を発散しながら、同時に疾駆するような
軽やかさとスピード感が感じ取れ、同様に雷神の左足と右腕の不自然な
ねじれが、自然の法則を超えた躍動感を表現しているように感じました。
このような詳細なところは、この間実物を観た時には、ここまで近づくことは
出来なかったので、気づけなかったのだと思いました。

また金地の風神の裏に、銀地の秋風になびく秋草の図があり、雷神の裏に
洒脱な流水と夏草の図があるのも、抱一が私淑する光琳へ示した讃嘆と
親愛の情が十分に感受され、両者の響き合いは、まさに優雅の極致とも
いえる趣を醸し出していると、感じました。

2015年12月4日金曜日

漱石「門」における、抱一の屏風を坂井の家で再見した宗助の感慨

2015年12月2日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第四十七回)に、かつて自分のものであった抱一の屏風を、大家の坂井が
購入したらしいことを知った宗助が、坂井の家に確認するために赴いて、
それを目にした時の感慨を記する、次の文章があります。

「 けれども、屏風は宗助の申し出た通り、間もなく奥から縁伝いに運び
出されて、彼の眼の前に現れた。そうしてそれが予想通りついこの間まで
自分の座敷に立ててあった物であった。この事実を発見した時、宗助の
頭には、これといって大した感動も起こらなかった。ただ自分が今坐って
いる畳の色や、天井の柾目や、床の置物や、襖の模様などの中に、この
屏風を立てて見て、それに、召使が二人がかりで、蔵の中から大事そうに
取り出して来たという所作を付け加えて考えると、自分が持っていた時より
慥に十倍以上貴とい品のように眺められただけであった。」

何ともわびしい感慨です。宗助は自嘲気味に自らの境涯を見ているのか、
それとも人生を達観しているのでしょうか?

しかしその感じ方には全然卑屈なところはなく、何かさばさばした潔さも
うかがわせます。そんなところが、宗助という人物の魅力であるとも感じ
ました。

話は少しそれますが、彼からこの屏風を巡る顛末を聞いた坂井が、その
事実を笑い飛ばして、以降この二人がより親しくなったという記述は、
坂井の余裕と度量の大きさを感じさせて、この人物も好ましく思いました。

2015年12月2日水曜日

龍池町つくり委員会 23

12月1日に、第41回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

京都外国語大学の小林さんより、先日実施されたスタンプラリーの活動報告
があり、参加者は子供18人、保護者5人、ラリー終了後アンケート調査を
行い、「楽しかった。」「龍池について知ることができた。」など、おおむね
好評の感想をいただき、一定の成果を上げることが出来た、ということです。

また、今回の参加者のこれからの同様の活動への希望としては、「親子で
参加できる活動」というものが多く、参加者を増やすためにも、親子で楽しめる
企画ということが、キーワードになるだろう、ということです。

反省点としてはやはり参加者が少なく、開催時期のタイミング、広報活動の
工夫にさらに改善の余地がある、という結論になりました。

次に、龍池学区の緑の資産調査を卒論に企画する、同大学の能戸さんより
その調査の経過報告があり、彼女は町つくり委員の西村さんや、私のところ
にも先日聞き取りに来られたのですが、学区内をくまなく回って、緑の見られる
ところをマッピングした地図を作成され、披露いただきました。

その地図を見て、南先生より子供たちに学区内の緑を探してもらうスタンプ
ラリーの企画も考えられるというお話があり、我々の活動にも色々なものが
つながって、さらに発展して行く可能性があると、実感されました。

杉林さんのカルタ作りの企画もいよいよ具体化して来て、若手漫画家の集団
京トキワ荘のメンバーに協力を仰いで、カルタの絵札のベースを作成して、
来年2月28日午前中に、子供たちの参加するワークショップを開催することに
なりました。

今年の委員会はこれで終了しましたが、来年の活動の充実を予感させる、
活気に満ちた閉会となったように感じました。