2015年11月30日月曜日

鷲田清一「折々のことば」235を読んで

2015年11月28日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」235に
真並恭介著「セラピードッグの子守歌」から引いた、認知症を患う女性の
次のことばが取り上げられています。

 あんたが笑うと私も笑う

このことばは、認知症の女性がセラピードッグと接触を持つ中で徐々に
癒され、発したことばということですが、高齢の母と共に暮らし、仕事を
しながら見守りもしている私は、”介護を受ける立場の人が笑う”という
部分に感銘を受けました。

高齢者を世話するということは、先が見通せないうえ、転倒によるけがや
思わぬ病状の発症など、とかく負の現象が多く生起するので、介護する
側もついつい気分が沈みがちになります。

しかし浮かない顔や態度で接していたら、世話される人も面白くないで
しょうし、反対に介護を受けている人が痛がったり、不満を訴えれば、
こちらもさらに消沈します。

でももし年老いた母が、例えば夕食のおかずが美味しかったと喜んで
くれたり、床の間に活けた花がきれいだと笑ってくれたら、こちらも思わず
笑顔になって、そのような時には、どうやって次に母を喜ばせようかと、
知恵を巡らせていることがあります。

結局介護される人の笑顔が介護する者の喜びであり、逆に癒されている
のかも知れない。そんなことを考えさせられました。

2015年11月27日金曜日

鷲田清一著「「聴く」ことの力ー臨床哲学試論」を読んで

著者の阪神淡路大震災の体験を契機として、理不尽な苦しみにさいなまれる
人に向き合う時に、ただ「聴く」という行為が相手を癒し、ひいては自らにも
変化をもたらすということを、臨床哲学という概念を用いて明らかにしようと
する書です。

私は哲学的思考や方法論に疎いので、本書の語るところをどれだけ理解
出来たか甚だ心もとないのですが、著者の柔らかい説得力を持った語り口
から、漠然とした気づきとして、本書で展開される思考の核心には、触れる
ことが出来たように感じます。

まず臨床哲学という概念ですが、従来の哲学が門外漢から見ても、文字通り
形而上の学として、我々一般の人間が関わる社会的営みを超越した地点を
対象とする思考行為であったのに対して、少なくとも今を生きる人々に寄り添い、
そこに生起する問題を現場の人々と同じ目線で考えようとする姿勢に、好感が
持てます。哲学という学問分野においても、現代という時代に人々がより良く
生きるための方法を模索する試みが行われていることを、心強く感じました。

さてここからは、本書によって触発された「聴く」ことに対する私の感慨ですが、
若い頃の私は内気で、赤面癖があり、見知らぬ人、異性と一対一で向き合って
話すことが苦手でした。これは相手にとって自分がどのように見えるか、
あるいは自分の話す言葉に相手がどのような感情を抱くかということに過剰
反応して、冷静な自己を保てなかったということであったと思います。

その要因としては自分自身に自信がなかったこと、相手にどう接すべきかを
知らなかったことに集約されるのでしょうが、つまり自分というものが可愛く、
そんな自分を守ろうとしたのだと感じます。その時点において、私には自分の
問題で手いっぱいで、とても人の話を親身になって聞く余裕はありませんでした。

その後長い社会人生活を営むなかで、一応社会の中での自分の立ち位置も
確定し、それに従って役割の範囲内で自分の言動にある程度自信を持ち、
一対一で相手を戸惑わせず対応が出来るようになりました。そしてそうなって
初めて、相手の話をじっくりと聞く余裕が出来たのです。

少し論理はずれるかも知れませんが、鷲田が説く「聴く」は、私の個人的な
この体験に対応してはいないでしょうか?人の根源的な苦しみに寄り添う
ためには、「聴く」人の心の持ち方が重要になるでしょう。そのためにはもちろん、
相手を思いやる気持ちが不可欠ですが、それは同時に利己心を捨て、相手を
信じるために自分を信じる虚心坦懐の姿勢が、必要であるでしょう。

このような心の在り方、日頃の自分に照らし合わせても、なかなか至難のことと
感じながら、そうあるべき指針として、確実に心に響くものがあると思いました。

2015年11月25日水曜日

鷲田清一「折々のことば」230を読んで

2015年11月23日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」230に
哲学者マックス・シェーラーの論考「悔恨と再生」から引いた次のことばが
あります。

  (悔恨の)その光によって、悔恨することなければ思い出さなかった
 沢山のものごとを初めて具象的に思い出すことができる

最初、まったく意味が分かりませんでした。悔恨というのは、とにかく負の
イメージ。それがまさか光を放つなんて!

しかし次に続く解説で、ー悔いは後ろ向きの悲嘆や後悔ではないーと
いうなら、おぼろげながらこのことばの輪郭も、浮かび上がって来ます。

悔いるということは、とかく私たちの現代社会ではマイナスなものとして
受け取られ勝ちです。未来に向けて希望を持ち、積極的で肯定的な
物言いがもてはやされます。その結果ともすれば、反省や省察といった
自らの心の中に深く沈潜する姿勢が、おざなりにされやすいように感じ
られます。

でも実は、感情的にならず、冷静に、客観的に振り返ることが出来るなら、
悔恨の対象は自身が一度経験、もしくは思考を巡らせた事象であるだけに、
豊かな示唆や前回には気付かなかった新たな発見を、与えてくれるとも
考えられます。

時には内省的であること。現代に生きる私たちには、特に必要なことでは
ないでしょうか?

2015年11月22日日曜日

安部公房著「砂の女」を読んで

忘れ去られた海辺の砂丘の村で、理不尽にも蟻地獄のような砂底の
あばら屋に、閉じ込められた男の物語です。映画化もされた名作です。

まず驚かされたのは、この小説の特異な場面設定と尋常ならざる話の
運びを、破たんなくまとめる作者の構想力と筆力です。

読み始めは、余りに異様な物語の進み行きに、果たしてついて行けるのか
といぶかりましたが、作者の巧みな話術に、気が付けば知らず知らずの
うちに、男と一緒に怒り、戸惑い、悲しみ、喜んでいました。

小説が時に読者を、現実には体験出来ない世界へ誘ってくれることを、
端的に示す作品でもあります。しかしさらに読み進めて行くと、この物語の
異様な場面設定が、日常生活ではなかなか気づくことの出来ない、
人間存在の本質をあぶり出す、装置の役割を果たしていることが次第に
見えて来ます。その意味では、優れて演劇的な小説とも言えるでしょう。

この視点から見て行くと、彼が閉じ込められた四方を砂の壁に覆われた
家は、それ自体絶望的な閉塞感を催させる存在ですが、社会的、家庭的な
しがらみに支配された、現実生活を生きる人間というものを考える時、
その人が暮らす家は状況によって時には、砂底の家に匹敵する精神的に
閉ざされた空間となりうる可能性があります。

同様に主人公が落とし込まれた家が、絶えず四方の壁からの砂の崩落に
よる埋没の危機に瀕し、彼がそこで生活することを強いられる理由が、毎日
砂かき作業の肉体労働を、しなければならないということにあることも、
日常生活の中で現実の人間が、否応でも生活の糧としての労働に従事
しなければ生きて行けないことの暗示とも取れます。

また砂底の家で彼を迎える、夫、子供を失った村の女との葛藤が、
肉体関係から始まり、次第に愛情へと転化する疑似夫婦としての生活も、
日常世界における男女の相互理解と、愛情の深化のメタファーとも感じ
させます。

このように特異な状況の中で、人間の本性、運命をいやというほど見せつけ
られた後、それでもなお希望と救いがあると感じさせてくれたのは、結末部分で
彼が強制ではなく、この砂底の家で生きて行く意味を見出したことです。

逆境の中での不屈の意志と創意工夫が、人に生きる意欲を再生させるこの
描写は、それまでの重苦しい気分を一気に反転させてくれる、心に残る
結末でした。

2015年11月19日木曜日

漱石「門」の中の、風呂敷の包み方の描写について

2015年11月18日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第三十七回)に、大家の坂井の家に入った泥棒が、逃げる途中で
宗助たちの借家の裏庭に残していった、坂井家から盗んだ手紙入れの
文庫を、宗助が坂井に返しに行くに際して、持ちやすいように御米が
風呂敷で包む様子を記する、次の文章があります。

「御米は唐桟の風呂敷を出してそれを包んだ。風呂敷が少し小さいので、
四隅を対う同志繋いで、真中にこま結びを二つ拵えた。宗助がそれを
提げたところは、まるで進物の菓子折のようであった。」

風呂敷に使用する白生地を商う三浦清商店の店主の私としては、得意な
分野の題材です。

少し見づらいかもしれませんが、上の写真が正式な包み方、下が文章に
出てきたこま結びです。

説明しにくいのですが、正式な包み方には、心のこもった、行き届いた
雰囲気があり、こま結びの包み方には、少し無頓着か、おざなりな感じ
がします。最も今日では、風呂敷に包むだけでも十分に丁寧ですが・・・

つまり前者では、包む品物を大きさに余裕のある風呂敷で包み、後者では
ぎりぎりの大きさの風呂敷で包むか、ぶら下げて持ちやすいように包む
ということになります。

「門」の描写においては、宗助と御米の生活の慎ましさ、健気さを巧みに
表現しているようにも感じられます。

漱石の生きた時代には、このような風呂敷の包み方によるニュアンスの
違いが、まだ広く一般の人々に共有されていたのでしょう。

2015年11月16日月曜日

「ぶらりたついけスタンプラリー2015」開催

11月15日(日)に、京都外国語大学南ゼミと龍池町つくり委員会の共同企画、
「ぶらりたついけスタンプラリー2015」が開催されました。

前夜には時折激しく降って心配させられた雨も、開催に合わせるように上がって、
約20名ほどの子供たちと父兄の方が参加、四組にチーム分けしてそれぞれに
第1チェックポイントの地図を受け取り、担当の学生さんの先導のもと、出発
しました。

私は四組の中の一つ、「りょうがえまちチーム」に付き添い、10:00に集合場所の
国際マンガミュージアム内龍池自治連合会会議室を出発、最初のチェックポイント、
マンガミュージアムの正面入り口前に向かいました。

そこでクイズに答えてスタンプと新たな地図をもらい、次のチェックポイント「ホテル
オークラ1888」前の丸型ポストに向かいます。

そちらから同様にスタンプと地図をもらって、最後のチェックポイント「京都伝統
工芸館」に着きました。三つ目のスタンプをもらってから工芸館を見学させて
いただきました。「りょうがえまちチーム」はスタンプがそろうと、黄色い丸型ポストの
形になりました。

館内では金工、陶芸、木彫の実演を見学、子供たちは最近では目にすることの
少ない生の伝統工芸の現場を目の当たりにして、歓声を上げたり、興味深そうに
目を輝かせていました。

優れた伝統工芸品の展示を見学してから、12:00にマンガミュージアムの会議室に
帰り、全チームがそろってから、学生代表の小林さんの司会のもと、活動中に
撮影された写真を正面のスクリーンに映して、全員でにぎやかにスタンプラリーを
振り返りました。

会議室では、龍池学区やまちつくり委員会の活動内容、そして次回の催し「カルタ
プロジェクト」を予告するパネル展示も行われました。


2015年11月13日金曜日

京都文化博物館「レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展」を観て

本展は、ルネサンスを代表する巨匠ダ・ヴィンチがフィレンツェ共和国の依頼で、
フィレンツェの政庁舎(ヴェッキオ宮殿)の大会議室に描いたという幻の壁画
「アンギアーリの戦い」を、近年所在が明らかになったダ・ヴィンチ本人による
この壁画の下絵とも噂される、謎に満ちた名画「タヴォラ・ドーリア」によって
解き明かそうとする、ミステリー性も帯びたスリリングな展覧会です。

歴史上のアンギアーリの戦いは、1440年トスカーナ州アンギアーリで
フィレンツェ軍とミラノ軍によって繰り広げられた戦いで、フィレンツェ軍の勝利に
よって終わったそうです。

この壁画は、史実の顕彰を意図して企画されたに違いありませんが、
制作技法上の失敗や、フィレンツェ共和国を巡る政情の変化もあって、50~60年
後には失われることになったと言います。

しかしこの幻の壁画は、近年の「タヴォラ・ドーリア」の綿密な研究や、現在は
違う壁画に覆われている、かつて「アンギアーリの戦い」が存在した壁面の
科学的検証によって、次第にその相貌が明らかになりつつあります。

さて、そのような背景の中での本展です。まずこの展覧会のメインの作品
「タヴォラ・ドーリア」は、未完の部分も多く残す、制作途上を思わせる作品
ですが、軍馬、戦士一体となった躍動感と迫真性に富む描写は、画家の
並々ならぬ技量を雄弁に物語っています。その証拠に、同時に展示される
他の画家のこの作品の、もしくは壁画そのものの模写と比較した時、本作の
完成度の高さは一目瞭然であるように感じられます。

ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」は作品自体は失われても、その革新的な
表現法によって、本展でも分かりやすく具体的に例示されているように、後世の
戦闘画描写法に大きな影響を与えたと言います。正に天才ダ・ヴィンチの
面目躍如たるところがあると感じました。

さらに本展では、この壁画と同時にヴェッキオ宮殿の大会議室を飾る予定で
あった、ミケランジェロ「カッシナの戦い」の下絵模写も展示されています。

その場でしか観られる可能性がなかった二人の巨匠の競作は、もし完成して
おればいかばかりのものであったでしょう?ルネッサンスの豊饒に思いを馳せ、
しばし現実の時を忘れることの出来る、贅沢な時間を提供してくれる展覧会
でした。

2015年11月11日水曜日

鷲田清一「折々のことば」214を読んで

2015年11月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」214に
領家高子著小説「向島」から引いた、次のことばがあります。

 気持ちの素性さえ、しゃんとしてればいいんだ。

人の心は、とかくゆれ動くもの。ともすれば、あらぬ方向に流される恐れが
あります。

では、どういう心の指針を持って生きて行けばいいのか?前述のことばは、
母親の勝手気ままに振り回されたと嘆く若い芸者が、いっそ「決められた」
道を生きたいと訴えた時、女将が諭したことばだということです。

どのような道であっても、まず自分の意思で選ぶこと。そしてその想いに
沿った生き方をすること。女将はそう若い芸者に語ったのでしょう。

現実には人生は、そこを歩む者にとって重い手かせ足かせがはめられて
いたり、順調に見えて思わぬ障害が突然生起したり、知らず知らずの
うちに抜き差しならぬ事態に陥ったりするものです。あるいは、平穏な
日々の連続が、いつの間にか倦怠や不平に支配されてしまうこともある
でしょう。

そのような、誰にとっても計り知れない人生の道行きにあって、心の持ち方
こそ最後の命綱なのだと、私は感じます。最も、平常心の中にそれを保つ
ことが、きっと非常に難しいのでしょうけれど・・・

2015年11月9日月曜日

漱石「門」の中の、酒井抱一の屏風を巡る御米と道具屋の値段交渉

2015年11月6日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第三十一回)に、宗助の留守宅に、手放すつもりの抱一の屏風を見に来た
道具屋の主人と御米のやり取りを記する、次の文章があります。

「座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどといって裏だの縁だのを
撫でていたが、
 「御払になるなら」と少し考えて、「六円に頂いて置きましょう」と否々そうに
価を付けた。
 
 「じゃ、奥さん折角だから、もう一円奮発しましょう。それで御払い下さい」
といった。御米はその時思い切って、
 「でも、道具屋さん、ありゃ抱一ですよ」と答えて、腹の中ではひやりとした。
道具屋は、平気で、
 「抱一は近来流行ませんからな」と受け流したが、じろじろ御米の姿を
眺めた上、
 「じゃなお能く御相談なすって」といい捨てて帰って行った。」

売り手、買い手のお馴染みの虚々実々の駆け引きですが、それにしても
今や重要文化財に指定された屏風作品もある抱一が、随分安く見積もら
れたものです。

そういえば明治時代には、日本の美術品が多く海外に流出したということで、
これも価値観の大きく転換した時代の、なせる業なのでしょう。

ちょうど琳派400年ということで、抱一がまた脚光を浴びているので、ついつい
御米と道具屋のこの会話に目が止まりました。

2015年11月6日金曜日

秋の「京都非公開文化財特別公開」で浄土宗信行寺に行って来ました。

10月30日より秋の特別公開が始まり、伊藤若冲が描いた天井絵「花卉図」
がある信行寺(京都市左京区)に行って来ました。

この催しは、拝観料を文化財保護に充てることを目的に、寺社などの日頃
公開されていない文化財を、この期間に限り公開するものです。

私も、常には公開されていないということで、このお寺に若冲の天井絵がある
ことを、今回の新聞紙上の告知までついぞ知りませんでした。

この寺の所在地も今回初めて知ったのですが、東大路通り二条下る(南入る)
西側で、日頃岡崎の美術館に行く時などによく通るところです。

それほどにいつもは目立たぬお寺ですが、この日は特別公開に訪れた
人々で門の外まで行列が出来ていました。

待つことしばし、一回に「花卉図」のある本堂に入れる人数を通し、
一定時間で入れ替え制にしてあるので、思ったよりも早く本堂に上がることが
出来ましたが、まず天井絵の下に全員着座して説明を聞きます。それが
終わると、思い思いに天井にある絵を眺めながら、巡ることになります。

本堂の天井面の一画、たて約4m~よこ9mぐらいの部分が格子状に区切って
あって、全168面の1面を除いた167面(各38cm角)の中の円形の画面に、全て
異なる植物の絵が描いてあるということです。

まず最初に座った状態で眺めると、絵の具が薄れていて、あまりそれぞれの
絵を認識することが出来ませんでした。立ち上がって一枚ずつ注視すると、
ようやく図像が浮かび上がって来ました。

想像していたより絵が褪色していて、往時の面影はありませんでしたが、
よくよく観ると若冲らしい奇抜な構図やデザインを認めることも出来、また
想像を巡らすとかつての華麗さを思い浮かべることも出来て、一度観てみる
甲斐はあったと感じました。

2015年11月4日水曜日

龍池町つくり委員会 22

11月3日に、第40回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回は、間近に迫ったスタンプラリーについて、この企画のリーダーの
京都外国語大学の小林さんより概要の説明があり、話が進められました。

日時などは前掲のチラシ通り、各チーム10人前後、5つのチームに分かれて
3か所のチェックポイントを巡ります。チェックポイントのうち最後の1か所では、
見学、体験を実施します。この訪問先としては、風呂敷製造販売の山田繊維
さま、手ぬぐい、和装小物を扱う永楽屋さまに各1チーム、京都伝統工芸館
さまに2チームが確定し、他の一か所は調整中です。

当日のタイムスケジュールは、9:30に参加者に集合してもらって受付、
チーム分け、10:00に各チーム第1チェックポイントの地図をもらってスタート、
チェックポイントに到着後クイズに答えてスタンプをもらい、次のチェック
ポイントの地図をもらって再びスタートという要領で進め、11:00に最終チェック
ポイントに到着して約30~40分見学、体験、12:00マンガミュージアムに到着、
全チーム到着後10~15分程度プロジェクターを使用して活動の振り返り、
参加者にアンケートを配布、回収してお開きとなります。

今回のスタンプラリーは、子供たちに楽しんでもらうだけではなく、地域の
人びとの交流の場ともしたいと考えているので、子供の父兄を含めた大人
にも参加していただき、地域のことを知ってもらうようにしたいと思って
います。そのために、ラリーの発着場所のマンガミュージアム内、龍池自治
連合会会議室には、地域のこと、町つくり委員会の活動をもっと知っていただく
ために、パネル展示を計画しています。

2015年11月2日月曜日

中野重治著「斉藤茂吉ノート」を読んで

戦前期からの国民的人気を誇る歌人で歌壇の重鎮、それゆえ戦後、その
文学活動に対する戦争責任を問う声も上がった斉藤茂吉を、他方、
治安維持法違反で投獄され、転向した文学者中野重治がいかに論ずるか?
私が本書を手にした主な理由は、それを知ることにありました。

一つ重要なことは、本書が執筆されたのは第二次大戦開戦直前で、言わば
なお当局の監視下にあり、その言論活動を厳しく制限されていた中野が、
文字通り文学における時代の気分を代表する存在であったろう茂吉を、
俎上に載せたということです。

そのために本書では、私には残念ながら当時の時代背景、文学状況に
対する無知、また読解力の欠如もあって読み取ることが出来ませんが、
茂吉への批判を巧みに避けながら、なおかつこの歌人を冷徹に見据えて、
自らの文学的信念に沿った歌論を展開している、といいます。

そのような中野の企図が計らずも、この茂吉論を奥行きの深いものにして
いるのかも知れません。

私が本書を読んでまず感じたのは、中野が茂吉の人と歌を決して嫌いでは
なかったということです。いやそれどころか、恐らく当時の歌壇では抜きんでた
才能と、高く評価していたことです。

考えてみれば、中野が茂吉に敵意を持って挑みかかる構図は、私の稚拙な
先入観による思い込みで、よしんばこの歌人を論ずるに足る存在と認識して
いなければ、文学的良心に則した著者は、到底本論の筆を執らなかったで
しょう。

それゆえ本書では、茂吉の優れた歌人としての資質を表す、歌に込められた
鋭い感性、深い内省、人柄としての純朴さ、真摯さ、熱情が的確に示されて
いますが、同時にそれらの特質を併せ持つことによる、時流に押し流される
危うさも、浮かび上がらせているように感じられます。

私が中野の茂吉に対するこのような示唆から連想するのは、戦争画を描き
戦後同じく批判された藤田嗣治で、彼のこれら一連の作品を観た時、
画家自身が結果としては時代に迎合しながらも、恐らく本人にとっては、純粋に
芸術表現として戦争というモチーフに立ち向かった末に、出来上がった絵画で
あると感じたことです。

それゆえそれらの絵画は、時代背景や成立の前提を排除すると、今なお
観る者の心に深く訴えかける力を持つのでしょう。茂吉の歌の魅力を
解き明かすと共に、芸術家の戦争責任についても、考えさせられる好著です。