2019年10月30日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1619を読んで

2019年10月24日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1619では
20世紀フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの『存在するとは別の仕方で ある
いは本質としての存在の彼方へ』から、次のことばが取り上げられています。

  〈自己に反して〉ということが、生きること
  そのものとしての生には印されている。

この言葉が意味するのは、要するに人生はままならぬ、ということではないでしょうか?

人生は順調に行っているように思われる時に限って、意外なところから、つまずきが
生まれるものです。それも、突然、唐突に。

また、自分という存在は、得てして自分自身が想定したり、思い込んでいる姿とは、
多分にずれているものですし、ましてや、これから自分がどんな人生を歩んで行くか
を予想しようとしても、実際にはその通りにならないことが、大半でしょう。

それは私たちが、自分の全てを把握しようとしても、到底かなわないのと同様に、いや
それにも増して、我々を含む人間という存在が、広大な自然現象のほんのちっぽけな
芥子粒のようなものであるということを、意味しているのに違いありません。

それゆえ私たちは、人生の中で様々な出来事に翻弄され、自分に期待をしては裏切ら
れ、喜怒哀楽を繰り返しながら、長いようで短い一生を駆け抜けるのに違いありません。

従って、自分の不運を嘆くこともあるでしょうし、能力のなさに絶望することもあるでしょ
う。

でも結局、それに耐えるしか生きる方法はないのですし、最悪の事態も永遠に続く訳
ではなく、ものの見方、心の持ち方を変えれば、新たな希望が発見出来る場合もあり
ます。

私は少なくともそう信じて、終盤に差し掛かる人生を、前向きに進んで行きたいと、考え
ています。

2019年10月28日月曜日

美術館「えき」KYOTO 「西洋近代美術にみる 神話の世界」展を観て

美術館「えき」で、上記の展覧会を観て来ました。

本展では、18世紀半ばから20世紀にかけてのギリシャ、ローマ神話や古典古代を
題材にした、美術作品が展観されています。ヨーロッパでは18世紀に至り、遺跡
発掘の成果などから改めて、古代ギリシャ、ローマ文化が脚光を浴び、同神話を
主題とする絵画などが、盛んに制作されるようになった、ということです。その流れ
は、芸術の革新運動が興隆した19世紀半ば以降も引き継がれ、20世紀の前衛的
美術にも見られる、そうです。

さてこの展覧会では、上記の文脈に沿って、近代西洋美術の代表的な画家、彫刻
家たちの作品が展示されていますが、出展作品は主に国内の美術館から集められ
ていて、それぞれの作家の代表的な作品は見受けられません。しかし、じっくりと
観て行くと、派手さはなくとも、良質で味わい深い作品が多く存在し、好ましく思う
と共に、日本の各地の美術館関係者の、各種制約の中での作品の蒐集に対する
確かな目を感じました。

特に印象に残った作品は、まずこれは英国の美術館からの出品ですが、ラファエル
前派の夢見るような甘美な気分を発散する絵画、フレデリック・レイトン《月桂冠を
編む》、その流れをくむ、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス《フローラ》郡山市立
美術館蔵、私にとっては、この画家の絵としては珍しい題材と思われた、ジャン=
フランソワ・ミレー《眠れるニンフとサテュロス》ユニマットグループ蔵、同じく私の
持っているイメージからは新鮮に感じられた、オディロン・ルドン《アポロンの二輪
馬車》《ペガサスにのるミューズ》それぞれポーラ美術館、群馬県立近代美術館蔵、
などです。


それから絵画以外では、あまり大きな作品ではありませんが、この彫刻家に特徴的
な力感的で、うねるような造形感覚が発揮されている、オーギュスト・ロダン《彫刻家
とミューズ》群馬県立近代美術館蔵、絵画だけではなく、版画の表現も素晴らしい
ことを、改めて感じさせてくれる、パブロ・ピカソ『オルガス伯の埋葬』高知県立美術
館蔵、などがありました。

全展示作品数が65点で、質的にもまとまっていて、余裕を持ってゆっくりと鑑賞する
ことが出来る、好企画の展覧会であると感じました。

2019年10月25日金曜日

大江健三郎著「ヒロシマ・ノート」を読んで

広島平和記念資料館がリニューアルされたのと時を同じくして、名高い大江のヒロシマ
・ノートを読みました。そして、広島の原爆の惨禍、被爆者の窮状に、全身全霊の生真
面目さで向き合う、若き日のノーベル文学賞受賞作家の熱情に、感銘を受けました。

著者が初めて被災後の広島を訪れたのは、原爆投下から18年後の第九回原水爆禁止
世界大会開催の直前でした。そして正にその時の体験こそが、本書に綴られるように、
以降大江が広島の被爆者に関わり続ける、強い端緒となったと推察されます。

それは彼が取材のために訪れたくだんの原水禁世界大会が、被爆地で開催され、全て
の核兵器を廃絶するという、人類共通の崇高な理念を帯びているにも関わらず、実際の
大会は国際的な力関係や政治の利害によって開催を危ぶまれ、正当な主張さえ歪め
られかねない、その体たらくを目撃したからです。

この訪問によって大江は、被爆者や被爆者二世に今なお続く苦患を目にする一方で、
エゴイズムが渦巻く核兵器反対運動の現状を体験して、大きな憤りを覚えるのです。
以降彼の広島への関心は、被爆者その人たちの生き方の直接の考察へと傾斜して
行きます。

著者が見た被爆者たちは、長年の原爆症に苦しみ、あるいはその発症に怯えながらも、
自分の使命を感じ、毎日を真摯に生き、核兵器反対の意志を明確にし、一人一人は
微力でも世間に切実に訴えかけようとする人々でした。大江はその姿にモラリストとして
の生き方や人間の威厳、正統的な人間としての誇りを感じます。

辛酸をなめ尽くした後の人間の底力に彼は感銘を受け、未来への希望を見出したのだ
と思います。

それぞれの被爆者のエピソードの、熱を込めた記述のほとんどを、私は共感を持って
読みましたが、唯一被爆が原因の白血病を発症し、2年の小康状態の後亡くなった青年
の、後追い自殺をしたフィアンセの若い女性のエピソードは、いかなる理由であれ健康
な肉体が失われることに対して、いたたまれないものを感じました。

本書のエピローグに紹介されていますが、原爆の悲惨を描いた名画『原爆の図』の作者
丸木位里、俊子による絵本『ピカドン』から採られた絵と付された短い文章が、この本の
カットに用いられています。これらも本書に綴られた記述と共に、強い説得力を持って、
核爆発の恐ろしさを訴えかけて来ます。

2019年10月22日火曜日

鷲田清一「折々のことば」1614を読んで

2019年10月19日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1614では
詩人最果タヒの随想集『きみの言い訳は最高の芸術』から、次のことばが取り上げ
られています。

  うまく話せないときほど、言葉の近くにいる
  感じがする。

そういえば私自身の話す様子を振り返ってみても、すらすらと話せた時に得てして、
自分の真意が本当に伝えられたのか自身が持てなかったり、もどかしく感じること
があります。

また逆に、相手が立て板に水のごとくスラスラと話すと、その説明が信用できない
ように感じたり、かえって内容がこちらの頭に入って来ないこともあります。それに
比べてむしろ、とつとつとした拙い話し方や、こちらが助け舟を出したくなるような
もどかしい説明が、説得力があるように感じられたりします。

つまり、文章に書くならいざ知らず、相手の目の前で、その場の状況や相手の反応
に合わせ、こちらの思いを伝えようと言葉を紡ぐ会話の場合、むしろスラスラと話せ
ないのが当たり前で、そのような場面でよどみなく出て来る言葉は、ある意味独善性
を疑わせたり、薄っぺらく感じられるのではないか?

勿論、話者がその言葉を発している時の表情や挙動、語り方が、話の内容に対する
相手の受け取り方に大きく作用することは言うまでもありませんが、それでも私は
少なくとも、程度の差はあれ、うまく話せないけれども懸命に伝えようとする人に、
ある種の誠実さを感じます。

仕事上では無論、話術を磨くことの大切さも感じますが、想いを伝えることの根本に
あるべき誠実さは、失わないようにしなければと、常々思っています。

2019年10月19日土曜日

堂本印象美術館「川端龍子がやってくる」を観て

堂本印象美術館で、特別企画展「川端龍子がやってくる」を観て来ました。

まず、浅草寺の本堂の天井画の共作などを通して、印象と龍子に交友があったこと
を、本展で初めて知りました。龍子から印象への年賀状も展示されていて、龍子の
展覧会がこの会場で開催される、浅からぬ縁を感じました。

美術館に入り、上階にあるメイン展示室に向かう途中の、この会場特有の螺旋スロ
ープ状の回廊壁面の展示スペースに展示されていた、龍子の長尺の軸装画「逆説・
生々流転」は、当初から予定されていたのかは分かりませんが、全くタイムリーな
作品で、少々驚きました。

それというのもこの絵は、つい先日首都圏を直撃して、信州、関東から東北にかけて
大きな被害をもたらした大型台風19号が、上陸以前から例えられていた、昭和33年
の狩野川台風の襲来に触発された当時の龍子が、横山大観「生々流転」のオマー
ジュとして描いた作品だったからです。

水墨表現中心の淡彩で、南洋の素朴な人々の暮らしが営まれている島々の海域で
生まれた台風が、次第に成長しながら日本本土に上陸して、凄まじい猛威を振るう
有様が、スケールが大きく、繊細さも兼ね備えた、力強い筆勢で表現されています。
現実の台風の脅威を体験した直後だけに、自然の抗えない力をひしひしと感じさせ
られました。

京都のしかも、この地に展示されるのに相応しい龍子作「金閣炎上」は、昭和25年
7月2日に放火され炎上した金閣寺を題材としていて、この絵画の前に佇み、じっと
凝視していると、あたかもメラメラと金閣を焼く炎が現前に踊るようで、思わず息を
呑みます。

ちょうど先ほどの回廊の展示スペースの一角に、堂本印象が放火事件直後に焼け
焦げた金閣を写生したデッサンが展示されていて、この作品からは、画家の消失の
無念の思いがにじむ情緒的な雰囲気が感じ取れますが、「金閣炎上」には、感情を
排してあくまで冷静に、事件そのものを描き上げようとするジャーナリスティックな目
が感じられます。

この川端龍子の展覧会は、点数はさほど多くはありませんでしたが、場所と時宜
に適い、充実した展観であると感じました。

2019年10月17日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1610を読んで

2019年10月14日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1610では
LivedoorNEWS/スポニチアネックス4月2日配信の将棋棋士・永瀬拓矢のインタビュー
から、次のことばが取り上げられています。

   努力とは息をするように続けられること、無
   理をしないこと。息をすることです。

我々凡人は努力というと、つい短期間に必死で頑張って、何かをすることを思い浮か
べます。

でも実際はどんなに頑張っても、短い時間で出来ることや、身に付くことは、たかが知
れていますし、所詮は自己満足に過ぎないのでしょう。

本当に地力や地頭を付けるためには、理に適った持続的な努力が必須であるのは、
間違いありまん。しかし我々にとっては、これが至難の業。ついつい短期間での成果
を求めてしまい、結果が見えなければすぐ諦めるか、興味が失せてしまい勝ちです。

一方、何かの分野で大きな成功を収める、いわゆる天才肌と呼ばれる人々は、私たち
からすると、余り努力をせずに、生まれつきの天分で直ちに結果を出しているように
見えるものですが、実は才能だけではなく、その上に尋常ではない努力を重ねて、
その成果を生み出しているということが、多々あります。

努力を苦にせず続けられることが一つの才能である、という言葉をかつて聞いたことが
あります。凡人である私も、せめて継続は力なりと自らを励まし、変化の激しい世の中
でも、ぶれずこつこつと、出来る範囲の努力を続けて行きたいと思います。

   

2019年10月14日月曜日

京都高島屋グランドホール「第66回日本伝統工芸展京都店」を観て

本日最終日に、恒例の伝統工芸展を観て来ました。台風の襲来、その他の事情に
より、ようやく滑り込みで観ることができました。最終日は終了時間も早いので、
残念ながら駆け足で観ることになり、いつもよりより絞って、もっぱら染織作品を観ま
した。以下、その感想を記します。

染織部門は、さらに研ぎ澄まされた作品が、展観されているような趣きがあります。
これは昨今の着物離れ、高額な商品の販売不振が、色濃く反映されているように、
感じます。

各作家は、そのような困難な状況の中で、現代の伝統工芸品とは如何なるもので
あるべきかということを、懸命に模索しているように思われます。

そしてその答えとして、華美ではないけれども洗練されていて、より技術的に手の
込んだものが追求されているように、感じました。その傾向は、決して今年に限った
ものではありませんが、今回私が染織部門だけに絞って観たので、さらにその思い
を強くしました。

勿論、ここ数回では、観客に工芸品をより身近に感じてもらうために、出口近くの
販売コーナーで、出品作家の手ごろな小品を紹介する試みも、行われています。

その試行を否定するものではありませんが、展示品においては、ある意味どれだけ
手間を掛けた作品を制作するかということが競われているので、そのギャップを
強く感じました。

最後に染織部門の入賞作について、記します。朝日新聞社賞 神谷あかね作 生
絹着物「海の中のできごと」、藍の模様と余白の白、その境界に覗く淡い黄色の
コントラストが、涼しげで、洗練された効果を生み出しています。

日本工芸会奨励賞 岩井香楠子作 型絵染着物「春のはじまり」、白地に裾を中心
として全体を埋めるように染められた、規則正しい淡いブルーの花と、ところどころに
配された浅黄色の花が織りなすハーモニーが絶妙で、近くから見ると、細い横じま
が、軽やかなリズムを生み出しています。

同じく日本工芸会奨励賞 武部由紀子作 刺繍着物「あはいの空」、作家が長年
追求して来た幾何学的な刺繍表現の一つの完成形と言ってもいいような作品。
着物柄における、しなやかさを備えたミニマル・アートを彷彿とさせる作品、と感じま
した。

2019年10月11日金曜日

イサク・ディネセン「アフリカの日々」を読んで

第一次世界大戦前後、植民地東アフリカで、コーヒー農園経営に携わった、北欧貴族
の女性の体験に基づく物語です。

従ってアフリカを巡る国際情勢や、現地の人々の生活習慣など、現在とは大きく隔たり
があり、いわゆる過ぎ去った時代の物語ではありますが、それでも、それを差し引いて
も余りある、魅力的な物語です。

何故かというと、主人公の女性農園経営者が、アフリカの土地とそこに暮らす人々を
心から愛し、偏見なく慈愛を持って接する故に、その懐に深く入り込んで、当時のアフ
リカの豊かな自然や現地人の習俗を、体験し記述しているからです。

無論女性主人公がいくら慈悲深い人ではあっても、植民者と土着民の関係には、自ず
と支配、被支配の力が働きます。しかしそのような人間関係が示す限界も、現代に生き
る私たちに、多くの示唆を与えてくれるように思われます。

その点は後ほど記するとして、まず当時のアフリカの豊かな自然環境があります。雨期
と乾期で全く表情を変える、風光明媚で広大で、荒々しい高原地帯。農作物の収穫量は
天候に大きく左右され、膨大な数のイナゴの来襲にも見舞われます。正に運を天に任せ
るしかない趣きがあります。人間が農業に携わる長い歴史の中で、リスク管理に取り組
むようになった原点を、見る思いがします。

厳しい気候の一方で、野生動物も豊富です。主人公たちは動物を狩るサファリを、スポ
ーツのように楽しみます。野生動物が厳重に保護される現在では、考えられないこと
ですが、それほどかつての自然は豊穣であった、と感じられました。

野生動物との関係でもう一つ印象に残ったのは、親のいないガゼルの子を主人公が家
に連れ帰り、そのガゼルが成長後、野生に帰ってからも子供を連れてしばしば主人公を
訪れる場面。その詩情豊かな表現は、人と野生動物の愛情による絆を感じさせます。

当時の現地人の生活、習俗も大変興味深く、まず印象的だったのは、彼らの中では家畜
等大切な所有物のやり取りによって、主な経済活動が行われること。例えば、誰か若者
が相手を殺した場合、殺した側の親が殺された側の親に、その死に見合う家畜を譲ると
いうように。

しかしこの物語の時代には、宗主国の西洋的な犯罪観が裁判を通して導入されて、現地
の人々の考え方との間に、齟齬が生じて来ていました。同様に最後に主人公が農場経営
に失敗して、現地を去ることになった時も、借地人である現地人は、彼らにとっては言われ
ない立ち退きを命じられるなど、後々の独立後のアフリカ諸国の政情不安の兆しを、見る
思いがしました。

色々な意味で内容豊富な、満足出来る読書を楽しみました。

2019年10月9日水曜日

佐々木閑「現代のことば 宿命との闘い」を読んで

2019年10月9日付け京都新聞夕刊「現代のことば」では、花園大学教授でインド
仏教学が専門の佐々木閑が「宿命との闘い」と題して、集団生活の中に身を置く
ようになった子供が、友達と協力して物事を成し遂げる協調性を身に付けるよう
ように求められ、その一方、勉強や運動で他者より優位に立つために競争力を
養えと言われて育った結果、大人になってからこの相反する二つの規範の矛盾
に引き裂かれ、苦しむことがあることを例に挙げて、このような矛盾を「人間の
宿命」として解説しています。

確かに私たちはこの例にたがわず、様々な矛盾と折り合いを付けて日々の生活
を送っている、と感じられます。まずその端的な例は、欲望と理性でしょう。欲望を
充足させるだけでは、健全な社会生活は営めませんし、そのためには理性を働か
せることも、必要です。でも理性でもって欲望を抑え込み過ぎれば、精神的な健康
を損なうことになる、かも知れません。

同様に、様々な事柄について、人間は片方に偏り過ぎることを避けながら、バラ
ンスを取って考え、行動し、生活を送ることを求められているのではないかと、私は
感じます。勿論そのような中庸を重んじる消極的な思考からは、革新や発展は生ま
れないという、考え方もあるでしょう。しかしあくまで均衡の中から、幾分どちらかに
突出するという形でなければ、健全な改革は生まれない、と私は思います。

この「人間の宿命」を語る文章でも、釈迦の教えとして、一元化した理想を求めるの
ではなく、本来そういうものとして自己矛盾を受け入れ、その姿のままで、いらぬ
欲望を起こさないで生きることが、精神的安定を得る方法と、説いています。

私はこの文章を読んで、この釈迦の教えが、私自身が考える、均衡を持って人生を
生きるということに通じるのではないか、と感じました。

2019年10月7日月曜日

あべのハルカス美術館「ラファエル前派の軌跡展」を観て

ラファエル前派の芸術運動は、19世紀半ばにイギリスで起こった運動で、美術史的
にはフランスの印象派と双璧をなすもののようですが、現在の日本の美術愛好家
にとっては、印象派があまりにも有名であるのに対して、ラファエル前派は認知度が
やや低いように思われます。

私も今まであまり、まとまった数のラファエル前派の絵画を観たことがなく、今回の
展覧会では、これまで体験したことのないジャンルの作品に触れられるという期待を
持って、会場に向かいました。

まず会場で目にしたのは、これは良い意味で期待を裏切られたといってもよい、ター
ナーの作品、この画家は以前にも展覧会に行ったことがあって、私の気に入りの
画家の一人なので、ラファエル前派が、その前世代の画家ターナーの絵画創作活動
を擁護する、気鋭の美術評論家ラスキンの思想に共鳴して始められた運動であること
を知り、一気に時代背景を知ることが出来たように感じました。

またこのコーナーでは、ターナーの秀作は無論、優れた素描家でもあったラスキンの
作品も多く展示されていて、その普通の画家とは趣が違う、科学的思考力や観察眼
を兼ね備えた、それでいて詩情溢れる作品たちに、新鮮な感銘を受けました。

今回のメインのラファエル前派の画家の絵画の展示コーナーでは、アカデミズムを
脱して、ラファエロ以前の自由な表現手法の絵画に帰るという、この運動の理念にも
関わらず、最早産業革命や近代化の洗礼を受けた人々の心が、素朴で単純な時代
に帰れないという事実からも推察されるように、その絵画は、対象のあるがままの姿
を捉えようとしながら、何故か表現過剰で、刹那で、官能的、退廃の雰囲気も漂わせ
て、来るべき象徴主義やウィーン分離派の絵画運動を予感させるものと、感じられま
した。しかしその絵画は充分に魅力的で、時間を忘れて、作品に見入りました。

ラファエル前派の第二世代に、ウィリアム・モリスが席を占めていたことも、私には
驚きで、というのは、アーツ&クラフツの工芸運動で、以前から彼をよく知っていた
ので、今展で近代のイギリスの美術史の大まかな流れを、把握することが出来たと
感じられて、その点でも、有意義な美術鑑賞になりました。

2019年10月5日土曜日

後藤正治著「拗ね者たらん 本田靖春人と作品」を読んで

本田靖春の作品では、かつて『誘拐』を読んで、被害者家族、犯人、警察捜査陣と、
全てに目を行き届かせて事件の全容を明らかにし、しかも事件のショッキングな性格
にも関わらず、曇りない公平な目で、そこに至る社会的背景までもを解き明かす、鮮
やかな筆さばきに、感銘を受けたものでした。

また筆者の後藤作品では、『天人』で感じた、優れた新聞人への愛情の籠る敬意と
同質のものを、本作でも嗅ぎ取ることが出来る気がして、迷わず本書を手に取りま
した。

本書を読んで、フリーのノンフィクション作家となり、数々の名作を物しながらも、本田
靖春の執筆者としての立脚点が、新聞の社会部記者にあったことが分かります。更に
は、彼の生き方の原点は、旧朝鮮、京城からの引き揚げ体験にあり、戦後の窮状と
混乱の中で、大陸からの幼い帰還者として、彼が受けなければならなかった言われな
い差別が、常に社会的弱者に寄り添う姿勢を形作ります。その上如何なる権力にも
おもねらず屈しない執筆態度を生み出します。そしてそれらの視点こそが、彼の作品
に厳正さと奥行き、読後の余韻を、賦与しているのです。

また彼が『天人』の深代惇郎と同様、海外特派員を経験したことも、忘れてはならない
でしょう。その後の作品の対象を見る目には、国際的な視座も織り込まれているので
す。

本書で、本田の各作品の成立の経緯を巡る、関係者の述懐を読んでいて気付かされ
るのは、彼が恩義のある先輩記者や編集者には礼を尽くし、若手出版人には、温かく
厳しい態度で接した姿が見えて来ます。そこには、真摯に報道と出版に携わる者への
敬意と、その未来を担う者への心からの激励が読み取れます。彼のこのような側面は、
筆者後藤とも感応する部分であり、それゆえに後藤は本田を描きたくなったのでしょう。

本田の絶筆となった『我、拗ね者として生涯を閉ず』は、正にその表題が彼の生き方を
端的に現わしているのであり、活字離れが叫ばれている現在にあって、新聞記者は
如何なる報道姿勢で取材し、記事に向き合わなければならないか、ノンフィクションライ
ターは表現者として、如何なる誠実さと良心を持って作品を執筆しなければならないか
を、身をもって具現した人物が、本書から立ち上がって来ると、感じました。

2019年10月3日木曜日

龍池町つくり委員会 63

10月1日に、第84回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

今回の中心議題は、11月17日(日)13時から15時まで開催予定の、京都外国語大学
南ゼミとの共同企画、「ぶらりたついけスタンプラリー」の計画案発表で、担当の京都
外大生小川さんより、説明がありました。

内容は、4名ぐらいの参加者の小学生とその保護者、学生さん、当委員会のメンバー
で1つのチームを組んで、龍池学区内のチェックポイントを回ってお話を聞き、更に
クイズに答えてスタンプをもらいながらゴールを目指す、というものです。チェックポイ
ントとしては、薬を扱う東田商店さん、薬祖神詞、御朱印帳を制作する山田保延堂さん、
omo京都もりたもとこの楽しいきもの屋さん、に決定しました。

東田商店さんは、かつて和漢薬を扱う店が軒を連ねた、二条通り界隈に今も店を構え
る薬屋さん、山田保延堂さんは、何代も続く御朱印帳制作のお店で、omoさんは、若い
人にも手軽に着られる着物を提案する着物専門店です。

チェックポイントのお店については、今回学生さんより委員会に提案されて、委員から
山田保延堂さんでは、スタンプラリー用の台紙を参加した子供たちが自分で作る、ワー
クショップを開催出来ないかという提案があり、omoさんについては、呉服業界に携わる
人が多いこの地域で、まだ新しいお店ではありますが、今日の着物離れが進む時代
状況の中で、このような新しい取り組みを進める経営者にお話を聞くことも、意味がある
のではないか、ということで、最終的にお願いすることになりました。

また、今回のスタンプラリーでは、終了後マンガミュージアムの自治連会議室で、出題
クイズの答え合わせをして、ラリーの振り返りを行い、参加者に印象を残すための取り組
みもしたい、ということです。昨年同様、お花で淹れたお茶の飲み比べも行う、ということ
です。

今後の準備として、各町回覧用のモノクロチラシ作成、また御所南小学校配布用の両面
カラーチラシを約1000部作成するということです。

2019年10月1日火曜日

鷲田清一「折々のことば」1586を読んで

2019年9月20日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1586では
米国の建築家ルイス・カーンの『ルイス・カーン建築論集』から、次のことばが取り上げ
られています。

   ひとりの人間のもっとも優れた価値は、その
   人が所有権を要求できない領域にある

ここでは、自分の発想、作品とこだわるところには真の創造性はなく、先に自分の中に
あってつねに蠢いているもっと古いもの、そこにこそ創造性の原点はある、という意味
を語っているそうです。

確かに、何かを始める時に、その原点を大切にするということは、必要でしょう。しかし
私はこのことばを、人という存在の、人間としての価値を指し示す言葉として受け取り、
感銘を受けました。

つまり人の本当の価値は、社会的地位やどれだけ財産を持っているか、ということで
決まるのではなく、その人の内面に宿る人間性によって判断されるべきだと語ってい
ると、解釈したのです。

こういう尺度で人間を評価することの重要性は、かねてからよく語られて来たことでは
ありますが、言うは易く行うは難しというか、現実には世間の評価ということも相まって、
私たちはついつい、社会的成功者を称賛する傾向にあります。

しかし必ずしも、社会的に成功した人の人間性が優れている訳ではなく、逆に市井に
埋もれてつつましく暮らしている人の中に、得てして高潔な人はいるものだと、思い
ます。

大切なことは、世俗的な評価に惑わされず、人間性が優れた人を見極められる目を
持つこと。そして出来れば、そのような人にあやかれる人間に成るべく、研鑽を積む
こと、だと感じます。