2019年3月29日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1414を読んで

2019年3月26日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」では
宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」から、次のことばが取り上げられています。

  曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成
  楽しく生きていた
  そこには芸術も宗教もあった

芸術や宗教行事は、人の感覚に訴えかけ、暮らしの気分を入れ換える、この張合い
を生活の核とすれば、自治と抵抗の精神も芽生える、とこの国民的詩人で童話作家
は考えたそうです。

背景には当時の農民の貧困と過酷な生活があったのでしょう。でも上述のことばは、
何もその頃の農民に限らず、現代の私たちの心の持ち方にも当てはまる、と感じ
ます。

現代を生きる私たちは、科学的知見の発達や、資本主義化、核家族化によって、急速
に宗教意識を失って来ています。葬儀や法事の省略、簡素化は、そのことを端的に
表しているでしょう。

金銭や物質的な無駄を省くという意味では、それでいいのかも知れません。でもその
ようなやり方では、何かの拍子にふと、虚しさやわびしさを感じるのではないでしょう
か?少なくとも私は感じます。

芸術についても、なるほど現在では、私たちは世界各地の豊富な種類の芸術を味わう
ことが出来ますが、かつてのこの国の芸術が生活と密着したものであったということも
あって、現代の我々の芸術享受は、傍観者的であるようにも感じられます。

私たちを取り巻く現代社会のこのような環境では、それはなかなか難しいことだと感じ
ますが、私はたとえ個人的にでも、宗教や芸術に対峙する時に、自分なりに確かな感覚
を持ち続けていたいと、思います。

2019年3月26日火曜日

細見美術館「石本藤雄展ー琳派との対話ー」を観て

石本藤雄はフィンランドを代表するライフスタイルブランド「マリメッコ」で長くテキスタ
イルデザイナーとして活躍、現在は同じくフィンランドの老舗陶器メーカー「アラビア」で
陶芸家として活動するアーチストで、本展は彼の作品と細見美術館所蔵の琳派の
名品を競演させる、この美術館ならではのユニークな展覧会です。

私は恥ずかしながら国際的に活躍する石本の名を知らず、また「マリメッコ」に日本人
デザイナーが在籍したことさえも知らなかったので、本展の告知を目にして新鮮な驚き
を覚えました。

しかも江戸時代の渋い日本美術品の所蔵や展示で知られる細見美術館と、北欧の
モダンなデザインを象徴するような「マリメッコ」の取り合わせにも興味を惹かれ、
会場を訪れました。

まず、石本デザインのマリメッコ作品をこの落ち着いた美術館の環境で観て、私自身
の「マリメッコ」へのイメージも変わりました。これまでは、明るい色使いのあくまで陽気
で健康的なデザインというイメージが先行していましたが、石本のデザインの作品が
示すように、自然の観照や内省的な要素が含まれることに、気づかされた思いがしま
した。

また石本の日本の伝統に培われた美意識が、彼のデザイン作品の基礎となっている
こととも勿論関わっていると思われますが、現代的な北欧のマリメッコ作品が琳派の
美術品と違和感なく並び立ち、互いを引き立てることにも驚かされました。

琳派の美術品にも装飾的デザイン性という要素があり、それぞれのそういう部分が
共鳴し合うのか、洋の東西の相違、制作年代の違いという時空を超えて、華やかな
宴のただ中に迷い込んだような思いがしました。

新しい試みとしても、とても刺激的な展覧会でした。

2019年3月24日日曜日

鷲田清一「折々のことば」1404を読んで

2019年3月16日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1404では
ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの『職業としての学問』から、次のことばが取り
上げられています。

  一般に思いつきというものは、人が精出して
  仕事をしているときにかぎってあらわれる。

私の場合は、学問というような高尚なものとは全然違いますが、それでも思いつきや
閃きが生まれる時というのは、上述のことばに通じるところがあると感じます。

仕事をしている時でも、暇をかこっていたり、手持ち無沙汰で所在なげな時に、いくら
無理に頭を絞ってみても、ろくなアイデアは浮かびません。骨折り損がいいところです。

ところが、逆に忙しくてバタバタしている時に、ふといい案が浮かんだり、改善点を
思いついたりする時があります。そういう場合は勢いに乗るというか、相乗効果で
とんとん拍子に、ことがスムーズに運ぶことがあります。でもそれで調子に乗ると、また
痛い目に会うこともあるのが、厄介なところですが・・・。

更には、ずーと考え続けていながら、なかなか答えの糸口をつかめなかった問題が、
お風呂で湯船につかっている時とか、朝の目覚めの布団の中で、突然にヒントが浮か
んで解決することもあります。

これなどは、四六時中頭の片隅を占めている問題に対して、ふと心が弛緩した瞬間に、
思いもしなかったアイデアが浮かび上がって来るという図式で、この現象が私たちに
教えてくれることは、自分にとって大切なことに対しては、常日頃から問題意識を持っ
て、考え続けることだ、ということでしょう。

少し余談になりますが、気分や体調が悪い時は、いくら考えてもろくなアイデアが浮か
ばないばかりか、逆にマイナス思考に陥ってしまうことがあります。私は経験上そういう
時には、何も考えないように努めるか、出来るだけ早く布団に潜り込むことにしています。

2019年3月22日金曜日

島田裕巳著「戦後日本の宗教史」を読んで

戦後日本の宗教観、精神世界の変容を、「天皇制」「先祖崇拝」「新宗教」というキー
ワードを軸として解き明かす書です。

私のような戦後生まれの日本人には、一般的なイメージとして、我々の抱く宗教意識
は、年月の経過と共に益々希薄になって来ているように感じられます。しかし戦前
には現在とは全く違う精神世界が確かに存在し、現実にニュースで目にする他国の
宗教的熱狂や、我が国でも時として世間の耳目を集める特異な宗教的事件は、宗教
というものが私たちの潜在意識の中で、今なお確実に生き続けていることを感じさせ
ます。

折しも、オーム真理教事件の教団関係の死刑囚全員処刑というショッキングな出来事
と重ねて、本書を読むことにしました。

まず「天皇制」の変化については、天皇という存在の憲法上の位置付けの転換、国家
神道体制の解体が私たちが従来認識して来た戦後の新しい価値観でしたが、本書に
よると宗教的観点からは、天皇の宮中祭祀が戦後も継続され、靖国神社が戦前の
価値を保持したままで存続することが許されたことが、戦後の国民に対する天皇の
イメージを曖昧なものにしたといいます。

それはひいては、戦争中我が国によって被害を受けた周辺のアジア諸国との関係を
長くギクシャクとしたものにし、我々国民の心の中にもわだかまりを残すこことになった
のです。

「先祖崇拝」は、戦後の高度経済成長による大都会への人口集中、核家族化によって、
先祖崇拝が急速に失われて行く過程を示します。葬儀の簡略化、檀家制度の衰退は
これと一つながりで、私たちもこの現象を肌で感じて、宗教意識の希薄化を実感する
のでしょう。

ここで興味深いのは皇室の後継問題で、日本の核家族化という趨勢は、何も庶民に
限られたことではないのです。

「新宗教」は、世の中の価値観が急激に変化する時に生まれやすいそうです。戦後の
急速な経済発展の中で、物質文明化と独立世帯の増加に呼応するように勢力を伸ば
したのが創価学会で、バブル崩壊の予兆の中で、力を付けたのは神秘主義と終末論
を掲げたオーム真理教であったといいます。

オーム事件の悲惨な結末は、我々に大きな衝撃を与えましたが、私たち人間が何らか
の形で精神的な拠り所を持たなければ生きていけない存在である以上、宗教について
も確固とした価値基準を持つことが必要であると、本書を読んで感じました。

2019年3月20日水曜日

上田慎一郎監督映画「カメラを止めるな」を観て

昨年本格的に公開されて大きな話題を呼び、ヒットを重ねて、初長編監督作品で上田
監督が第42回日本アカデミー賞の最優秀編集賞を受賞した「カメラを止めるな」が、
テレビの地上波で初放映されたので、早速観てみました。

放映以前の日の予告や、当日放映前の監督、出演俳優の告知でも、最初の40分間
コマーシャルなしでノーカット放映されるので、そこで観るのを止めずにその後を楽しみ
にご覧下さい、という趣旨の発言が繰り返されていたので、観るにあたって余りに漠然
としてその意味するところが理解出来ず、映画の題名でもパロディー化しているのかと
いぶかりましたが、実際に観てみてすぐにその意味がわかりました。とにかく、最初の
40分が肝心。そこを注意して観て置くと、楽しめるのは間違いなしです!

映画の冒頭は37分のワンカット。ゾンビ映画の撮影現場で実際の撮影が進行して
いるはずが、迫真の演技を追求する監督が呼び寄せたのか、本物のゾンビが乱入
して、瞬く間にあたりは凄惨な修羅場に・・・。そんなシーンが続きますが、何かどこ
までが演技で、どこからがリアルか、判然としない微妙な違和感と共に、この37分間
が終わります。

そしてそこから始まるシーンで、この映画の撮影までの前日譚、撮影の舞台裏が次第
に明らかになり、観客は冒頭37分間の場面を思い起こしながら、そこに至る諸事情、
どのようにしてそのシーンが意図して撮影されたのか、あるいは図らずも現出した
のかを、自ずと知らされることになります。

つまり虚実入り混じった、ホラー映画のメイキング現場を追うメイキング映像とでもいう
ような手の込んだ入れ子状の映画で、俳優の個性にきめ細かく則し、計算し尽くされ
た脚本の上に、偶然も含めて彼らの熱演を最大限に引き出す演出の妙、その雰囲気を
損なわないために迫真性と同時にわざと稚拙さも垣間見せる、カメラワークの絶妙さが
マッチした、低予算でありながら映画愛に満ちた極上の娯楽作品であると、感じました。

2019年3月18日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1402を読んで

2019年3月14日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1402では
ジョン・バクスターによる評伝『フェリーニ』から、映画監督・フェデリコ・フェリーニの
次のことばが取り上げられています。

  なぜ、そんなに続きをほしがる?皆、それ
  ほど想像力がないのだろうか

私は学生の頃、イタリアの巨匠フェリーニの「道」を観て、西洋映画の素晴らしさに
初めて目覚めたと記憶します。観終わった時には感動で心が打ち震え、いつまでも
その余韻が残って、40年以上経った今でも、鼻歌で主題歌のメロディーが口ずさめる
ぐらいです。

上記のことばから改めてこの映画の残像をつなぎ合わせると、詩的な数々の名場面
と共に、粗暴な大道芸人ザンパノが、長らく道連れであったにもかかわらず、自分が
棄てた薄幸の女性ジェルソミーナの死を知って、号泣するラストシーンが思い浮かび
ます。正にこのシーンが、観客の心に万感の思いを想起させたのでしょう。

最近の映画は、実写作品でもアニメや漫画原作のものが目立ちます。技術的には
これらの原作を実写化しやすくするCG技術が発達したこと、興行的には原作に人気
があってあらかじめ一定以上の観客動員が見込めること、が挙げられます。

更には最近の観客が、アニメや漫画的なスピード感や起承転結のはっきりしたストー
リー展開、分かりやすさを求める傾向があるのだと、思います。

確かにこれらの原作映画にも、素晴らしい作品はあります。でも上記のことばから
「道」の映画体験を改めて思い返した私には、余白や余韻を残す映画が懐かしく感じ
られました。それだけ年を取ったということでしょうか。

2019年3月15日金曜日

3月15日付け「天声人語」を読んで

2019年3月15日付け朝日新聞朝刊、「天声人語」では、ミュージシャンで俳優のピエール
瀧容疑者がコカインを使用したとして、麻薬取締法違反の疑いで逮捕されたことを受け
て、出演テレビドラマ、番組の自粛、撮影が終わっていた映画の出演場面に代役を立て
ての撮り直しなどが行われようとしている現象に触れて、戦後の無頼派作家、坂口安吾
の文学作品が、本人の無軌道な生活にも拘わらず今も愛読されていることを例に、逮捕
と出演作品は分けて考えるべきではないかと、最近のこのような風潮に疑問を投げかけ
ています。

このコラムでの指摘は、少なからぬ反響を呼んだようですが、私もピエール瀧容疑者
逮捕後の出演テレビドラマや映画の厳格な処置についての報道に触れて、少し腑に落ち
ないところもあったので、これを機会に考えてみることにしました。

まず、安吾が活躍した時代と現在では、作家、芸能人などの品行に対する一般の人間
の受け止め方が随分違うと思います。つまりその当時は、文士や役者や芸人は民衆を
感動させ、楽しませる作品を書き、演じ、芸を見せることが出来れば、当事者の素行は
二の次で、あるいは逆に不品行が作品や演技を鍛え、芸を磨くという考え方もあったと
思います。またそのような風潮は、比較的最近まで続いていたと記憶します。

それに対して現代社会では、作家、芸能人といった社会に影響力のある人々は、一般人
に一挙手一投足が注目されるという意味からも、生活態度においても模範的であることが
求められ、増してや麻薬摂取の広がり、低年齢化は現代の深刻な社会問題でもあり、
今回の事件での業界の厳しい対応は、やむを得ないところもあると感じます。

ただ、出演ドラマや映画が瀧容疑者だけによって成り立っている訳ではなく、優れた作品
が彼一人の不祥事によって多くの視聴者や観客の目に触れることが出来なくなるのは、
惜しい気がします。私は少なくとも、誰もが手軽に見られるテレビではなく、観たいと考え
る人が能動的に映画館で観る映画作品なら、そのまま公開しても差し支えないと考え
ます。

その意味でも、白石和彌監督映画「麻雀放浪記2020」が公開まで時間がないということで、
瀧容疑者の出演場面もそのままに公開されるということを知り、勇気づけられる気がしま
した。

2019年3月13日水曜日

京都国立近代美術館「京都の染織」展を観て

同美術館が開館した1960年代から今日までの京都の染織を、28人の染織家の作品
によって概観した展覧会です。

まず染織と一括りにする中でも、染と織という大きな区別は言うに及ばず、それぞれ
における技工、表現方法の多様さに驚かされます。更には衣装といった工芸的作品
からパネル、屏風、立体的オブジェと作品のジャンルも多様で、色彩的な美しさが
目を惹く作品が多いこともあって、さながらめくるめくワンダーランドに迷い込んだよう
な趣きがありました。

作品の展示方法も、染と織の作品を区分けして展観するのではなく、それぞれの
作家の表現方法や作品の傾向も含めて、程よく両者をミックスさせて配列している
ので、染織作品が根底に持つ軽みが知らず知らずのうちに体感出来る展覧会に
なっていると感じました。

また言うまでもなく、個々の作家の美意識の高さ、技量の確かさは、長い年月文化
の中心であった京都という土地でこそ培われた伝統の裏付けを実感させますし、
同時に作品の芸術性の高さからは、60年代以降進取の気質にも富む京都の作家
たちが、染織の従来の概念に果敢に挑戦した様子も見て取ることが出来ます。

具体的に個々の作品から印象に残ったものを取り上げると、喜多川七重の染色
パネル「フクシマの母子」は、従来の染色作品のイメージを変える重厚なホルムと
色使いのろうけつ技法で、存在感の際立つ裸体の子を抱く母親を通して、大震災
という未曽有の災禍の中での母性を浮かび上がらせ、力強い表現法で壊れやすく
繊細なものを描き出す鋭い感性を、素晴らしく感じました。

鳥羽美花の3帖からなる屏風作品「辿りついた場所Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」は、白山紬の地に
型染の技法を使って、廃墟を思わせる雄大な風景をスケール大きく、しかし同時に
はかなさを宿す抒情性を伴って描き上げ、従来の染色作品にないモニュメント性を
獲得していると感じました。

2019年3月11日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1392を読んで

2019年3月3日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1392では
白洲正子の『お能・老木の花』から、次のことばが取り上げられています。

  動きは早くても荒くならぬよう、型は多くて
  も粗雑に流れぬよう、そのためにこのような
  重い装束をつけるのはかえって助けになる

私が若い頃に能の謡曲、仕舞いを習っていた時に、実は一度だけ師匠の好意で装束
と面を実際に着けさせてもらって稽古をしたことがあります。それらを身に着けると
あまりにも身体の自由が利かず驚かされました。

衣装はきらびやかですがごわごわとして重く、着付けるために何本もの紐できつく締め
付けられますので、身体全体を押さえつけられているような感覚になります。

面を顔に装着すると、木製の面に厚みがある上に、目の部分に穿たれた小さい穴から
外を覗く格好になるので、視界は極端に狭められて、周囲の状況はほとんど知覚出来
なくなります。

能の演者はそのような状態で、自身の舞台上の位置取りは四方の柱から見当をつけ、
謡曲や囃子を頼りに優雅に、あるいは激しく舞を舞い、シテを演じるのです。

自分で少し体験してみて、その大変さが実感として分かりました。演者は仕舞いの型は
勿論、謡曲も囃子も全てをそらんじていなければならず、一曲の能を舞うためには、
並大抵でない習練が必要です。

とても私には演者は務まらないと思ったのは当然として、翻って鑑賞をする立場からは、
能という伝統芸能の感興が、そのような制約の中から期せずして現出するものであると
感得出来たのも、事実でした。

その意味でも装束と面の体験は、私にとって貴重なものでした。

2019年3月8日金曜日

京都国立近代美術館「横山大観展」を観て

生誕150年を記念する大観の回顧展です。

横山大観というと近代日本画の東の大成者、朦朧体、雄大な富士の画と、すぐに思い
浮かべられる紋切り型の代名詞が多く存在し、私も最初既知感に囚われて、本展に
赴くのをためらいました。

しかし会期も押し詰まり、結果として思い切って足を運んで良かった、と感じました。
それは頭に溜め込まれているイメージだけではない、大観の絵画世界の多様さを知る
ことが出来たからです。

まず朦朧体という言葉で示される、岡倉天心の指導の下、彼が日本の伝統絵画への
挑戦者、変革者であるというイメージがありました。しかし本展で実際に初期の作品を
観て、その目新しさに感銘を受けたのは、挿入される色彩の鮮やかさでした。

従来の日本の絵画にはなかった新しい顔料を積極的に取り入れ、十分な効果を伴って
使いこなすことによって、後世の日本画に大きな影響を与えました。大観の面目躍如
たるところでしょう。

他方彼の水墨画では、力強く勇壮な作品が印象に残りました。「雲去来」は、墨の黒々
とした色と画面の地の白のコントラストが彼独自の描法も相まって、けれん味のない
潔さを現出していると感じさせますし、彼の水墨画の技術の集大成と言われる、全長
40メートルを優に超える画巻、重要文化財「生々流転」は、自然の中の水の循環を
情緒豊かに、なおかつ荘厳に描き上げることによって、悠久の時の流れを表現するに
至っています。

彩色画の表現方法も多様で、綿密で鮮やかな色使いで装飾的な画面を作り出す作品、
思い切った単純化で祝祭的な雰囲気を生み出す作品、あるいは、ユーモラスな人物
表現が泰然とした気分を醸し出す作品などが見られます。

私が一番意外性を感じたのは、後期の作品「野に咲く花二題(蒲公英、薊)」で、一見
大観の画題とは思われないか弱い野の花を、優しい色彩で丹念に、慈しむように
描いています。彼の普段は画の表に出ない、心の温かさを見る思いがしました。

「昭和」の大観の代名詞である富士は、戦時体制とも結びついて彼のイメージを形作り
ましたが、彼の画業を通覧した後に改めて観ることによって、思想の衣をはぎ取った
純粋な絵画としてその美しさを愛でることも可能ではないかと、今回気づかされた思い
がしました。


2019年3月6日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1391を読んで

2019年3月2日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1391では
芥川龍之介の『侏儒の言葉』から、次のことばが取り上げられています。

  最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しなが
  ら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をする
  ことである。

この言葉は、かつてなら自分の身は高みに置いて社会を揶揄する、冷笑的な知識人
の生態を端的に示す言葉だったように思われます。

この身の処し方とは対照をなす、熱い心を持って社会を変革しようと行動する人物が、
物語やドラマの主人公としてもてはやされた時代があったと記憶します。

しかし政治的な混乱や経済成長の熱狂の時代が過ぎて、私たちの社会がいわゆる
成熟の時期を迎えると、人々は現在の生活水準を維持しようと保守的な考え方に
囚われ、あるいはこれ以上いかなる努力をしても社会は変わらないという諦念に囚わ
れて、主体的に社会の変革に関わろうとする能動的な意志を、次第に失って行って
いるように感じます。

更にSNSの急速な発達によって、個人が匿名で自分の主張を広範囲に拡散出来る
ようになったことから、無責任で公共の倫理に反する言論が巷にあふれる現象が、
現に起こっています。

このような社会状況にあって、かつての冷笑的な知識人の恥ずべき処世術を、鷲田
もこの稿で指摘するように、我々現代人もなぞることになっているのでしょう。

その意味で上記の芥川の言葉は、時代を飛び越えて私たちに向けた鋭い警句と
なっていると、感じました。

2019年3月4日月曜日

2月24日付け「天声人語」を読んで

2019年2月24日付け朝日新聞朝刊「天声人語」では、不便だからこそいいことがある
という「不便益」の考え方から、身体能力を低下させないためにあえて段差を設ける
介護施設や、漢字を忘れないようにするために偽の漢字をときどき交ぜてくるワー
プロ、道を覚えやすいようにするために何度も通ると道がかすれて消えていくカーナ
ビななどの事例を挙げて、今問題になっているコンビニの深夜営業について再考を
促しています。

私自身も、深夜にコンビニエンスストアが営業していることによって、便利さを感じた
体験がまるっきりないことはありませんが、今までも基本的には真夜中にコンビニが
開いている必要性があるだろうかと、感じて来ました。

つまり、夜中も営業しているという予備知識があるから、あえてもっと早い時間に買い
物に行こうとせず遅い時間に行くのであって、ことさらに深夜に開いている必要はない
のではないか、と思うのです。

勿論、夜中に急に必要になるものがないとは限りません。その点においてはコンビニの
夜間営業は大変便利です。でも考えてみれば急に必要となる品も、深夜に店が開いて
いないことをあらかじめ知っていたら、事前に準備して備えて置けるものが大半でしょう。
その意味ではコンビニより薬局が深夜営業している方が、ずっと理にかなっているように
感じます。

あるいは夜中に開いているコンビニが、単に夜間に品物が買える利便性だけではなく、
深夜に明かりが点いた場所があることによる防犯上の役割や、行き場のない子供の
一時避難場所というような役割を担っている場合があるとしても、それは限られた限定的
な店舗、地域のことのようにも想像されます。

ですから何も全ての店舗が24時間営業である必要はなく、それぞれの店、場所に合った
営業形態を採ることが理にかなっていると思われますし、かえって消費という文化を鍛え
るとも感じます。このエッセイの指摘するように、利便性の向上は必ずしも生活の向上と
一致しないと思います。

2019年3月1日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1383を読んで

2019年2月22日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1383では
英国の批評家、E・M・フォースターの評論「無名ということ」から、次のことばが取り上げ
られています。

  情報は正確なときに真理となり、詩は自立し
  たまとまりを持つときに真理となる。

情報は誰がどこで目撃したかが重要なので署名が必要、それに対して詩で重要なのは
目の前の事象以上に「本質的」な世界を生み出す作品であるかということなので、作者
が誰かは問題ではない、とこの批評家は述べているそうです。

確かに優れた文学にとって、一体誰が著したかということは本質的な問題ではなくて、
いかに創造的であり、共感を伴って読者のイマジネーションを喚起することが出来るか
ということの方が遥かに重要でしょう。

そしてもし無名の作者がそのような作品を生み出すことが出来た時、私たちは新しい
才能の誕生を目の当たりにすることになるのでしょう。

しかし我々はネームバリューや既成観念に囚われやすい存在であるゆえに、文学を
味わおうとする時にも、ついつい既存の情報に左右されてしまうのかも知れません。

芸術におけるこうした問題を考える時、私には絵画の評価ということがまず思い浮かび
ます。絵画の市場的価値と美術的価値はかならずしも一致しないと感じます。

一般の人間は得てして、市場的価値の定まった作品、つまり既存の人気のある画家の
作品を評価し、無名の画家の作品はたとえそれが優れた作品であっても、なかなか
評価しないものです。

それゆえに優れた文学、芸術を享受するためには、私たちはより多くの作品に触れて、
審美眼を養うことが必要であると感じます。