2021年8月31日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2118を読んで

2021年8月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2118では 作家・関川夏央との対談『日本人は何を捨ててきたのか』から、哲学者・鶴見俊輔の次の ことばが取り上げられています。    真理を方向感覚と考える。その場合、間違い    の記憶を保っていることが必要なんだ。 確かに我々日本人は、過去の過ちや失敗を、うやむやにしてしまう傾向があるのではない か? その典型的なものが敗戦の体験で、全ての罪は軍国主義にあると考え、一般国民は逆に 犠牲者であるというような言い分が、年月が過ぎるにつれて支配的になって行ったように 感じられます。 しかしあの戦争直前には、この国に好戦的な気分が醸成され、庶民の間でも開戦を望む 機運が高まっていたように伝わりますし、真珠湾攻撃の成功は、熱狂的に受け入れられた と言われます。 勿論あの当時は、国民の生活状況や国際情勢も、現代とは全く違うので、単純に現在の 価値観であの頃の一般的なものの考え方や、行動様式を非難することは出来ませんが、 やはり、庶民も戦争に否定的でなかったことは、記憶しておくべきことだと、思います。 その後悲惨な戦争を経験して、国民の中に厭戦の気分が広がり、平和を尊いと感じる思い が広がったことは、かけがえのないことだと感じますが、そこに至る我々の思考方法の 変化については、反省の意識と共に、胸に刻み付けておくべきであると、強く思います。

2021年8月27日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2100を読んで

2021年7月30日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2100では 作家中島らもの随想集『その日の天使』から、次のことばが取り上げられています。    一人の人間の一日には、必ず一人、「その日    の天使」がついている。 とても詩的なことばです。そして同時に、救われることばでもあります。 人生はままならないもの。大きな災難、哀しみ事でなくても、いたるところにちょっと した悩み、小さな不満が隠れています。 最近は、それが当たり前に思えて来て、かえって望外の喜び事や、物事がうまく行き 過ぎると、後の反動が心配になるぐらいですが、それでも、日常の中に悩みや落ち込む ことは、絶えません。 ですが上記の言葉のように、一つの負の感情には、対になる些細な喜びや癒される感情 が付いて来ると考えると、随分気持ちが楽になります。 かつて私が観た、ビム・ベンダースの『ベルリン天使の詩』という映画で、図書館で 読書している人に優しく寄り添う天使の姿に、強く胸を撃たれましたが、正にそのような イメージを、この言葉に感じます。 要は、負の感情にさいなまれることがあっても、きっとまた救いも訪れるはずだ、という ことを信じ続けることでしょう。私も、ささやかな可能性を信じて、毎日を丁寧に生き たいと思います。

2021年8月24日火曜日

池波正太郎著「散歩のとき何か食べたくなって」を読んで

「鬼平犯科帳」「剣客商売」等で知られた、時代小説の人気作家として有名な著者による、 ひいきにした各地の食の名店を巡るエッセーです。 さすがの流麗な文章で、料理やそれに携わる人々への愛情に溢れ、読んでいて思わず、こちら も心地よくなる癒しの書です。 また折しもコロナ禍で、外食が制限される中にあって、料理店で食事をすることの楽しさ、 掛け替えのなさを、教えてくれる書でもあります。更には、単に名物料理、名店の紹介に留ま らず、著者自身の生い立ちや経歴も含めて、食を巡る優れた文化論になっています。 その観点で私の最も印象に残ったのは、著者が東京の下町出身の生粋の東京人ということも あって、在りし日の東京の食と風俗を描いた部分で、若かった頃に銀座の「資生堂パーラー」 で初めて洋食を食べたことから語り起して、当時の銀座のハイカラな佇まいと、背伸びして それに触れる著者の喜び、先端の料理を提供する料理人、スタッフの矜持を描き出すことに よって、活気に満ちた往時を再現する、あるいは、子供の頃から親に連れて行ってもらった、 蕎麦屋通いの習慣がすっかり身に付き、都内各所にある「藪蕎麦」で一杯ひっかけることが 恒例になっていると記して、東京人と蕎麦が切っても切れないものであることを、描いてい ます。 また、親戚の住んでいることから良く訪れた深川が、海に近く「江戸前」の魚介の供給地で あったこと、更にこの地の名店、泥鰌鍋の「伊喜」と馬肉鍋の「みの家」を巡るエピソードを 記して、当時のその界隈の様子を浮かび上がらせます。 東京以外の店の紹介では、やはり私の暮らす京都が気になりました。池波は、仕事柄度々京都 を訪れています。彼が足を向けたバー「サンボア」は、私も行ったことがあり、その頃は無論 主人は代替わりしていましたが、それでも歴史に裏打ちされた独特の雰囲気がありました。彼 の好みの一端を知る思いがしました。 その他にも「三嶋亭」「村上開新堂菓舗」は、今でも横目で眺めながら通り過ぎています。 往時と地続きのものを感じます。 本書が刊行されてから40年以上が経ち、著者も存命ではありませんが、本書に記されたような、 食を巡って店と客の間で醸成された濃密な文化が、途切れず残って行くことを、切に願って 止みません。

2021年8月20日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2097を読んで

2021年7月27日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2097では イタリア育ちの日本文学研究家・詩人ディエゴ・マルティーナの『誤読のイタリア』から、 次のことばが取り上げられています。    モノはね、壊れたら捨てるのではなくて、直    すものなんだよ 私たちはいつごろから、身の回りのものを簡単に捨てるようになったのだろう?そう考える 時、私はまず、衣類を思い浮かべます。 私の子供の頃には、よそ行きには、よく父親の服を仕立て直したものを、着せられていまし た。その服が、子供ものにしては生地も上質なので、育ちのよさそうな子供に見えると、 周囲の大人からおだてられて、自分でも気に入っていたことを記億しています。 その時の想いが身に沁みついているのか、私は今でも洋服の物持ちがいい方で、少し品の よいものはまずよそ行きとして着用し、それから常着に降ろして、10年以上愛用している ものもあります。そんな私の感覚からすると、相対的に廉価な服を1シーズンで着つぶすと いうやり方は、性に合わないと感じます。 同様に子供の頃には、母親が、例えば古いタオルを雑巾にしたり、カレンダーを切ってメモ 用紙にするなど、色々なものを再利用するのを見ていたので、そうするのが当たり前と思っ て来ました。 でも世の中は移り変わり、大量生産、大量消費の時代になって、私自身がそれを如実に感じ たのは、電気製品の中にも、修理するよりも使い捨て、という品が増えたことでしょうか。 まあ、こういうことを言っていること自体が時代遅れなのでしょうが、ヨーロッパなどでは まだ、そのような習慣が残っているように聞いたことがあります。私たちも、品物によって は、そのように使用方法を見直すべき、と思います。

2021年8月17日火曜日

黒川創著「ウィーン近郊」を読んで

私は京都に生まれ、同地で教育を受け、就職後一時離れたことはありましたが、結局家業の 白生地店を継いだので、人生の大半をこの地で暮らしています。従って遠い異国の地で、 望郷の念を抱きながら、自死を遂げた本書の主人公の想いは、理解の及ばないところがあり ます。 しかし複雑な家庭環境や、持って生まれた体質から、故郷に安住の地を見出せなかった彼が、 唯一熱中したラグビーから国際的な視野を持つようになり、ウィーンに行き着いたという ことには、若き日の私自身にかけていたものを、彼が獲得したという意味において、一目 置く思いがしました。 ですが彼の弔いと事後処理のために、幼い子供を連れて急遽ウィーンに来ることになった、 彼の妹の兄を巡る回想を読むと、彼はこの地では母替わりか、配偶者か判然としないものの、 かなり年上の思慮深い伴侶を得て、その女性の死が彼の自死にもつながる訳ですが、慎まし いながらも自足した日々を送っていたように思われます。その意味で彼の人生は、決して 悲惨ではなかったと、私は感じました。 他方、彼と同じ家庭環境に育った妹は、自立心の旺盛な人だと感じます。単身で養子に迎え た幼児を養育しながら生計を立て、今回も一人で子供を連れてウィーンにやって来ます。 彼女の成人するまで苦労を共にした兄への想いは深く、葬送のためのウィーン訪問にも、 兄妹の強い絆と愛情を感じます。 しかし、この妹が自ら夫婦仲が悪い中で、特別養子縁組で生まれて間もない子供を迎えた ことには、釈然としないものを感じました。自身の離婚を想定してもそのようなことは可能 か?つまり、この兄妹の自由さが、私の肌に合わないのかも知れません。 さて一方、本書のもう一人の重要な登場人物で、この兄の死後の手続きや遺族のサポートを 担う、在オーストリア日本国大使館領事の男性は、主人公と同じ元外務省派遣員の立場から 外交官になったという意味で、対照をなします。彼も、この在留邦人の死者のその経歴を 踏まえて、それとは悟られないように、遺族である妹の世話を行っているように推察され ますが、この自殺事件を切っ掛けに、自身の来し方を顧みずにはおかれなかったように、 思われます。彼の生き方は、地に足が着いたものであると感じました。 ヨーロッパの国に単なる旅行者ではなく、滞在する邦人の暮らし方の一端を、知ることが 出来たことも、貴重であると感じられました。

2021年8月14日土曜日

「鷲田清一折々のことば」2088を読んで

2021年7月18日付け朝日新聞朝刊「鷲田清一折々のことば」2088では 西洋中世哲学史家山内志朗の『小さな倫理学入門」から、次のことばが取り上げられて います。    感情もまた能力なのです。愛も恩も義理も、    自然と身につくものではないのです。 私は、感情の中の原初的なものは、本来人間に備わっているものだと考えます。例えば 何かを愛しいと感じたり、美しいと思ったり、また逆に恐ろしいと感じたり、憎たら しいと思ったり・・・。 でもその感情の核のようなものを、自覚的に認識するためには、他者を思いやり、相手 の立場に立ってものを考えることが必要なのではないでしょうか? そして、そのような態度を身に付けるためには、相手の気持ちを感受するための、訓練 が必要なのだと思います。 更には、そのような訓練を積むためには、自分に好意を抱いてくれる人、温かい心の 持ち主と多く交わることが大切でしょう。だから不幸にして、悪意に満ちた人や、猜疑 心の強い人に囲まれる環境にいる人は、そのような訓練を受けることが難しいかも知れ ません。 だから、好意的な人に囲まれている人は、そのことに感謝しなければいけませんし、逆 の立場の人は、自分が置かれた環境に自覚的になって、誰かの助けを借りてでも、そこ から抜け出すことを、模索すべきなのでしょう。

2021年8月11日水曜日

私の大腸がん闘病記⑳

手術からほぼ1年の月日が流れ、私の大腸がんの闘病生活もようやく、ひと段落を迎えた ようです。まだ1年後検診を受けていないので、今後の検査のスケジュールは分かりま せんが、恐らく6か月毎か1年ごとに検査、検診を受け、もし再発しなかったら5年後には、 今回の癌は完治ということになるのでしょう。 私としては、油断することは出来ないけれども、とりあえず正常な体に戻ったと考えて、 日々の生活に勤しみたいと思っています。 しかし、この闘病生活を振り返ってみると、最初は本当に青天の霹靂、起こった事態が 全く信じられず、何か他人事のように感じたように思います。 でも手術準備が進んで行くと、後は戸惑いと不安が高じて来て、これを済ませれば確実 に回復するという思い込みだけが唯一の希望で、そのことを信じて手術とリハビリに 励みました。 ですから手術後、抗がん剤治療が必要と言われた時には、かなりのショックを受けま した。そして実際の抗がん剤治療も、長期間続けなければならないことと、断続的に 副作用が続くことによって、かなり苦しいものでした。 なぜこんな目に遭わなければならないのかと、恨みがましく感じたこともあります。 しかし、まだ私は人生にやり残したことがあるので、このままでは終わる訳にはいか ないと、自分を鼓舞する気持ちと、苦しいということは回復するということだという、 根拠のない楽観だけが、私の消沈する心を奮い立たせてくれました。 そして決して忘れてはならないのは、医療従事者の方と家族のサポートです。当たり前 のように優しく、時には厳しく、支えて頂いたことが、私の闘病生活の糧となりました。 また、健康であることの有難さも、しみじみと感じました。この思いは、これからの 人生がある意味第2の生という風に感じられることともつながっている、と感じます。 とりあえずこれで、私のつたない大腸がん闘病記を終わります。

2021年8月6日金曜日

内海健著「金閣は焼かねばならぬ」を読んで

金閣消失を巡り、放火犯で金閣寺の寺僧林養賢と、これを題材に名作「金閣寺」を著した、 作家三島由紀夫の精神世界を描く、第47回大佛次郎賞受賞のノンフィクション作品です。 三島没後50年の記念作品でもあります。 私たち京都人にとって、70年ほど前の金閣消失は、今なお心騒ぐ事件です。放火犯の青年僧 の動機は、金閣の美に魅入られたためであるという通説が一般に流布していますが、現在の 新装なった全身に煌びやかな金箔を纏う麗姿ならともかく、その頃の金閣は金箔も剥げ落ち、 今ほどの光輝もなかったといいます。 無論人の憧憬の対象は様々ですが、そういう前提もあって、今一つ説得力に欠ける動機で あると感じて来ました。本書は精神科医である著者が専門を活かして、放火犯の実行に至る 精神構造と、その過程を見事に作品に描き出すに至った三島の精神構造を、綿密にあぶり出 しています。 私は精神医学には無知なので、その指摘は逐一新鮮で、また著者は哲学にも造詣が深く、 人間の精神世界を歴史的裏付けを持って彫り深く表現することに長けているので、大変刺激 的に本書を味わうことが出来ました。 さて著者によると、吃音を持ち人一倍生真面目、後には当時宿痾であった結核を発症した 分裂気質の林養賢は、修行僧としての過酷な生活と、観光寺院としての金閣の華やかさの ギャップ、またあるいは、将来この有名な寺院の住職に成れるかもしれないという野望に 急き立てられて、次第に分裂病の発症の臨界点へと近づいて行きます。 そしてその臨界点で明確な動機もなく放火を実行し、逮捕後一定の時を経てことの重大さに 押しつぶされて、分裂病の症状を呈するようになります。 他方三島は、幼少の頃祖母によって父母からさえ切り離され、周囲から隔絶されて育つと いう特異な生育環境によって、隔離という自己と周辺世界が隔絶された感覚しか持てない 精神病理を抱えていましたが、「金閣寺」執筆に当たっては、自らを主体と設定して小説を 書き進めることによって、主人公の放火に至る時々の思いに寄り添うことが出来ない資質ゆえ に、かえって事件の現場での主人公の病理を適確に描き出すことが出来たと語っています。 二つの稀有な精神が火花を上げるその場所に、正に文学が誕生する瞬間を描き出した、読み 応えのある作品でした。

2021年8月3日火曜日

私の大腸がん闘病記⑲

このようにして私は、抗がん剤治療の数を重ねて行きましたが、8サイクルで終了という中で 7回目に達した時、副作用が一番きつい状態になりました。 点滴の後の体のだるさはそれまでになく強く、直ぐに眠気が襲って来て、3日間ほど日中ほと んど寝床から離れられませんでした。その後も点滴の副作用が残っているようで、その上に 飲み薬の副作用も重なって、体の不調が続きました。 それで8回目の点滴の前の化学療法の担当医の診察の時に、7回目の後のしんどさを思わず 訴えました。すると担当医は、7回目までで点滴による抗がん剤は、十分に私の体に入って いて、これ以上入れると許容量を超える場合もあるので、これで点滴は終わりにしよう。 8回目は飲み薬だけ飲むように。よく頑張りました。と言ってくれました。 こうして飲む薬だけによる最後の抗がん剤治療が始まり、点滴がないので比較的体の負担も 少なく、私の抗がん剤治療が無事終わりました。 ただ、終わるとすぐに体調が戻ると思っていたら、ことはそれほど簡単ではなく、手足の しびれ、腫れはそれからも長期間残り、胃腸の不調もかなり続きました。それは今になって 思い返してみると、手足の状態は4か月後もまだ少し残り、胃腸の不調も確実に3か月ぐらい は、続きました。それが本当にゆっくり、少しづつ改善して行くのです。 抗がん剤治療終了後4か月に近づいた時、既に手術後1年が近づいていて、大腸の内視鏡検査 を再び受けました。結果は、新たにポリープは確認されず、手術の縫合跡も上手く治って 来ていて、至って順調に回復していると、検査を担当した医師から言われました。