2018年1月31日水曜日

谷崎潤一郎著「細雪(下)」新潮文庫版を読んで

いよいよクライマックス、三女雪子と四女妙子という、まったく性格の異なる二人の娘の
結婚の顛末が記されます。

その前に鈍感な私もここに来て気になり始めた、この小説における著者谷崎の立ち位置
の問題について。つまり無論この小説の語りは、登場人物の一人に託した一人称でも
なければ、客観性に徹した三人称でもありません。著者は小説の中のそれぞれの部分
で、主格となる登場人物に寄り添う形で物語を紡ぎ出して行きます。

これが日本の伝統的な話法であるかは、浅学にして私は承知しませんが、この語りが
読みやすいスムーズな流れを生み出し、作品のゆったりとしてたおやかな気分を保証
しています。

また登場人物が織りあげる物語だけではなく、この小説のもう一つの主題と言っても
いい、京都への毎年の花見行に象徴される、姉妹の衣裳、振舞い、行動に仮託された
日本の伝統的な情緒、美意識の表出も、この話法を用いることによりひときわ光彩を
放つように感じられました。

さて雪子、妙子の結婚に至るまでの挙動をハラハラしながら追って来て、一番カタルシス
を感じたのは、雪子が妙子に啓坊に対する仕打ちをなじる場面です。

妙子が付き合う男を次々替えながら、自分に未練のある彼に思わせぶりな態度を取って
金品をせびる、自己中心で小悪魔的な人間であることが次第に明らかになり、しかも
雪子の縁談がようやくまとまりかけて、妙子の行状がその支障になる恐れが出て来た時
に、雪子は自分に対する妙子の仕打ちなど意に介さず、啓坊に対する不実にこそ怒った
のです。

そこには、しっかり者の姉が迷惑ばかりかける出来の悪い妹を愛情をもって諭す姿が
描かれていて、胸がすく思いがしました。

雪子はようやく自分の眼鏡に適う人と結ばれ、他方妙子は恋人、子供を死によって失う
という悲劇に次々と見舞われますが、因果応報とでもいうか、常々人の行いが往々に
人生の吉凶を左右するという古い価値観を信じる私にとって、腑に落ちる結末でした。

もっとも気に入った相手にもすぐには返事をせず、しぶしぶ承諾した体を装う雪子の態度
には、女心は一筋縄ではいかぬものだという、感想を持ったのですが・・・。

2018年1月29日月曜日

「本谷有希子の間違う日々 聞くは恥、ではなく」を読んで

2018年1月22日付け朝日新聞朝刊「本谷有希子の間違う日々」では、「聞くは恥、
ではなく」と題して、最近とみに耳にしたり、活字で目にする機会が増えた、外国語の
発音をそのまま日本語に置き換えたようなカタカナ語について、筆者が感じるところ
を、自らの使用機会も踏まえて語っています。

私もこの違和感を伴う気持ちは、よく分かると感じます。その言葉を多く用いて話す
人や文章の中に散りばめる人は、きざに見えたり、薄っぺらく思えたり・・・。

確かに昔からの外来語は、長い間使われて来てよくこなれているからかも知れ
ないけれど風格があり、カタカナ語で表現すべき必然があるように感じて来ました。

また外国語が初めて日本に入って来た当時の人々は、苦心してその外国語の意味
に相応しい訳語を編み出し、知識としてのその言葉がこの国に定着するための
大きな役割を果たしたと思います。

あるいは戦時中には、むやみに敵性外国語を使用してはならぬと、定着した外来語
を無理矢理日本語に置き換えて、滑稽な表現が横行していたこともあったと、何かの
書物で読んだこともあります。

そのような外来語を巡る歴史もあって、私たちは近頃益々目立つようになった、安易
なカタカナ語の横溢を苦々しく感じるのではないでしょうか?

しかし考えてみれば、現代の社会はインターネットの普及もあってグローバル化が
一気に進み、私たちの国でもそれに伴い英語教育が奨励されているので、英語を
中心とした外国語の単語の直接的な使用が、抵抗なく行われるようになったとも
言えるでしょう。

更には言葉の交流がどんどん盛んになり、またその上我々は生活の中で加速度的に
時間に追われるようになって、悠長に吟味した翻訳語を作る余裕がない、とも言える
かもしれません。

いずれにしてもインスタントのカタカナ語が横行する状況の中で、少なくとも私はその
言葉が意味するところをしっかりと理解して用いるように心掛けたいと、考えています。

2018年1月26日金曜日

谷崎潤一郎著「細雪(中)」新潮文庫版を読んで

細雪(中)で最も印象に残るのは、大水害の描写です。この水害は、昭和13年7月5日
に実際に阪神地方を襲った災害で、神戸市内の山津波を初め、この一帯に甚大な
被害をもたらしたと言います。

私の生まれる以前の災害ですが、あの阪神淡路大震災の時に、今回の地震が阪神
地方にとっては、この大水害以来の災厄であるということを、確か聞いた覚えがあり
ます。

折しも近年の異常気象によって、各地で50年に一度といわれるような大量の降雨が
記録され、頻繁に水害の報道にも接する今日、本書のリアルな水害描写はより切実
なものと感じられました。

登場人物は最早それ以上どこにも避難出来ない情況で、刻一刻と水かさが増し、
身の危険が切迫する様子を臨場感をもって描く迫真の描写は、私には下手な災害
啓発映像よりも、十分説得力があると感じられました。

本書の主人公の四姉妹のうち、(中)では四女妙子の行状が中心に描かれます。
彼女は旧家の娘でありながら、家業が傾き始めた時分に生まれた末っ子ということ
もあってか、他の3人に比べて自立心もあり、手先も器用なので、自ら生計を立てる
ことを志します。

また恋愛に対しても当時の良家の子女としては奔放で、駆け落ち事件を起こしたり、
身分の違う男性と結婚を希望したりします。

それが価値観の違う他の三姉妹や家族との軋轢を生みますが、妙子が自分の意志
を通そうとして自分勝手な都合のいい振舞いをするにも係わらず、一方彼女には
他の皆の立場に対する配慮があり、恐らく育ちの良さから来るのだろう、どことなく
憎めない愛嬌があります。

また三姉妹や家族にとっても、彼女に振り回されながら可愛い末の妹のことを愛し、
世間体を気に掛けながらも幸福な人生を送ることを願っています。

この互いに相容れない部分がありながらも相手のことを思い、ひとたび集えば仲
睦まじく過ごす穏やかな様子の姉妹の姿に、古き良き日本的な美徳、たおやかさを
見る思いがして、心が和みました。

2018年1月24日水曜日

ロームシアター京都「文化庁メディア芸術祭京都展【ゴースト】」を観て

アート、エンターテインメント、アニメ、漫画の創造と発展を目指すという「文化庁
メディア芸術祭京都展」を観に、ロームシアター京都へ行きました。今展は「ゴースト」
をテーマに、目に見えないものが喚起する想像力を巡って、気鋭の作家によるメディア
アート17作品が展示されています。

同祭は20回目ということですが、私が観に行くのは初めてで、当初最新の機器を駆使
した表現手法が普通の美術展とは勝手が違うように感じられて、どのように作品に向き
合うべきか少し戸惑いを覚えてしまいました。

しかしすぐに一般の現代美術の展覧会と同じように、作品から自分が身体全体で感じる
ままに感じ取ればいいのだと思い直して作品に向き合うと、すんなりとその作品と交感
することが出来るように感じました。

個別の作品ではまず、ロームシアターB2Fノースホール『身体のない 《演劇》の空間』
に設置された高嶺格 「歓迎されざる者」、照明を落とした簡素な演劇の舞台のように
設えられたホールの中央に椅子が一脚置かれ、透明感のある白いドレスをまとった
女性が腰かけて静かに金子光晴の詩を朗読しています。

なかなかいい雰囲気を醸していますが、さてこの作品は何を訴えかけているのかと考え
ながら導かれるままにホールを見下ろす上階桟敷に上がると、そこにはモニターが2つ
据え付けられて、1つの画面には波にたゆたう古ぼけた木造船に階下で朗読する女性が
合成された画像、もう1つの画面には木造船だけがたゆたう姿が映し出されて、この
パフォーマンスが現在の社会情況の中で、私たちが感じているどうしようもないもやもや
を表現していることに気づかされます。

2F共通ロビー『ぽっかり広がった異界への入り口』では和田永「時折織成-Weaving
Records-」、透明の箱状のケースの上にオーディオ用のオープンデッキが設置されて、
デッキから下のケースにテープが延べ落とされてて行くと、そのテープがランダムで
美しいウエーブした模様を作り出し、それが巻き戻される時にはテープに録音された
荘厳なクラッシック音楽が響き、またテープが延べられて行くということを繰り返す
作品です。

テープの作り出す波形がその都度違う形を描き出し、一方音楽が流れると全てが
元に戻り、最近一般家庭では見かけなくなったオープンデッキのテープレコーダー
への郷愁を誘われる作品です。

2018年1月22日月曜日

「香川愛生の駒音だより 着物が教えてくれること」を読んで

2018年1月16日付け朝日新聞朝刊「香川愛生の駒音だより」では、「着物が教えて
くれること」と題して、将棋女流棋士の筆者が着物を着用して対局することの意味に
ついて語っています。

そういえば何とはなしに見ていましたが、大きなタイトル戦を報じる新聞掲載の写真や
テレビ映像では、将棋棋士が着物を着て対局している場面をよく目にして来ました。

将棋に限らず伝統的な行事、習い事などには着物がよく似合いますし、元来着物を
着用して行われるのが当たり前だったので、着物を着ないと所作も様にならず、その
本当の精神を学ぶことも出来ない、ということが起り得ます。

私は若い頃に能楽の謡曲、仕舞を習っていました。謡曲は動作を伴わず声だけで
表現するので、舞台に上がる時以外には着物を着用することの意義はあまり感じられ
ませんでしたが、仕舞では着物を着なければ足の運び、身体の動き、所作の決め方
が実際に分からず、通常の稽古は洋服で行っていましたが、本当は常日頃から着物で
練習すべきだと、よく感じていました。

さらには謡曲、仕舞の稽古事では、舞台に立った時初めて、自分がどの程度までその
技や精神を習得しているのかを推し量ることが出来ますし、その場面では着物を着用
していることが前提であるとも、感じました。つまり着物を着ないとその深いところは
分からないと思います。

聞くところによると、茶道もそういう要素が大きいようですし、和装に馴染のない人が
これから着物に親しむためには、伝統的な習い事から入るというのも、一つのやり方だ
と思います。

2018年1月20日土曜日

谷崎潤一郎著「細雪(上)」新潮文庫版を読んで

谷崎の代表作である「細雪」は、かねてより一度読みたいと思って来ましたが、
新潮文庫版で3冊からなる浩瀚さにこれまで躊躇していました。ここに来て読みたい
欲求の方が勝り、思い切ってページを開きました。

まず読み始めて気づいたのは、この小説の文章が余韻の残る味わい深いもので
ありながら、融通無碍とでもいうように、抵抗感なくすらすらと読めるところで、緩やか
に流れる物語の時間の中で、正に文体が作品の雰囲気を形作っていると感じられて、
谷崎の優れた小説家である一つの所以を知ることが出来た気がしました。

「細雪」は、大阪船場の旧家の四姉妹のある時期の日常を切り取った作品ですが、
この小説が上流階級の生活を描くことによって、日本的な美意識や情緒、一般にも
通じる人々の日々の哀歓を巧みに浮かび上がらせることに成功していると感じさせる
のは、一つは、船場という商人の町に出自を持つ一家を題材に選んでいること、二つ
目は、しかしその家運が隆盛ではなく衰退の予感が通奏低音となって流れていること、
三つ目には、昭和初期という都市の上流階級にとっては古き良き時代を描いている
こと、が挙げられると思います。

つまり裕福とは言え、商人の子女の家庭生活を扱うことは、取り澄ましたところの
少ない、より本音に沿った生き方を描くことになり、衰微の運命は人生に付き物の
哀愁を漂わせ、それでいて姉妹のかつて育って来た豊かな家庭環境は、日本的な
美を味わうための素養を彼女たちに与えているからです。

本書にこのような設定を施すことによって、工むと工まざるに関わらず谷崎は、第二次
大戦後に一時全面的に否定されることになった、戦前のある時期のこの国の美風を
見事に活写したと、私には感じられました。

無論この小説を語る上で欠くことが出来ないのは、主人公である姉妹の魅力的な
キャラクターで、特に(上)では三女雪子の心優しく、内気で自己主張が苦手、それ故
姉たちに幼い姪の世話などを都合よくさせられて婚期を逃していますが、ある見合い
に際して相手の男性の不躾な態度にきっぱりと否定の意志表示をする場面に、彼女の
置かれた状況の中で決してわがままを言うのではないが、しなやかに自分の意志を
通す生き方を見て、かつての日本女性の賢明な智恵の働きを思い起こさせられる気が
しました。

2018年1月17日水曜日

龍池町つくり委員会 48

平成30年1月16日に、第66回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

今年初めての委員会の議題はまず、間近に迫った1月28日(日)午前10:00~12:00
実施の「新春きものde茶話会」の詳細について。

最初に中谷委員長から、担当の「京のお正月談義」は、今回は「京の地蔵盆」と題して
お話をするということで、冊子が配られました。

今年地蔵盆を取り上げる理由は、かつて戦乱が繰り返された京の都で、町民が自ら
町を守る機運が高まり、町民間の相互扶助や意思疎通を図るために、祭りや
年中行事が考案、推奨され、地蔵盆はそういう行事の一つであること。

特に地蔵盆は、子供を中心とする宗教的な行事ということで、町内の住民皆で準備
をして、慣れない人には慣れた人が教え、大きい子どもが小さい子どもに教えると
いうように、行事の宗教的な意味、方法を継承して行くことによって、町内の老若男女
の結びつきを高める役割を果たして来たから、ということです。

今回その意義について話をしてみたいそうです。

「新春きものde茶話会」は、着物のレンタルを希望する参加者の申し込み期限は一応
終了しましたが、自分で着物を着用する人、着物以外の参加者の募集はまだ続いて
いるので、現在の約20人から更に参加者が増えることを見込んでいます。

学区内のホテル、民泊建設問題では、蛸薬師町の民泊施設新築を巡る住民と家主、
事業主のトラブルは、合意の上、協定の締結こぎつけたということです。

柿本町の新たなホテル建設問題は、住民と業者の間で話し合いが持たれることに
なりました。

地域の交番より、無届け民泊も多く存在することから、民泊の所在の実情を知らせて
ほしいという依頼があり、各町会長にも集まってもらう今月の連合会の理事会で、
各町の民泊の状況報告を要請することになりました。

2018年1月14日日曜日

福岡伸一の動的平衡 「ちょっと気配を消して」を読んで

2018年1月11日付け朝日新聞朝刊「福岡伸一の動的平衡」では、「ちょっと気配を
消して」と題して、福岡が少年時代にシジミチョウの観察から学んだ、自然を知るために
大切なことについて語っています。

昆虫採集の話題は、私も少年時代に熱中したので懐かしく、色々な思い出が脳裏に
去来します。

このシジミチョウから連想するのは、いつも足しげく通っていた、当時鴨川べりに残って
いた空き地で、確か造園業者が所有し、雑木林のようになっているか所もあり、街中に
しては自然が残っていました。

私はそこで、主にセミを捕まえていましたが、ある日いつも狙いを付けて訪れてみる、
雑木林の奥まった所に佇む虫の好む木の幹で、思いがけず初めてカナブンに遭遇
したのです。

その見事な光沢を放つ、この虫の青味を帯びた黄金色の羽の輝きは、今でも忘れ
られません。

ところで、その虫を捕まえることが出来たかというと、残念ながら結局逃げられて
しまったのです。その余りの美しさにしばし見とれていて、数分後我に返って虫を
捕獲すべく手を伸ばしたのですが、興奮していて指先が震え上手くつかむことが
出来ず、もたもたしている内に、カナブンは無情な羽音を残して、飛び去ったの
でした。

以降何度もその木の幹のところに行ってみましたが、一度もこの虫に出会うことは
ありませんでした。

自然は足しげく通うと時として思わぬチャンスを与えてくれるけれど、こちらにそれに
対する心の準備がないと、無情にもそっぽを向いてしまう。恐らくその時、そんなことを
学んだと思います。

2018年1月12日金曜日

MIHO MUSEUM「雪村ー奇想の誕生」展を観て

日本の優れた水墨画家では、その始祖とも言える雪舟、江戸時代に活躍した白隠の
作品には親しんでいますが、雪村は関東、東北を中心に活躍したこともあってか、
今までまとまった作品を観る機会がありませんでした。

また雪村が、今日一躍脚光を浴び私もその展覧会を好んで訪れる、伊藤若冲の絵画
の大きな特徴の一つである、奇想を我が国で初めて現した画家であるという触れ込み
も、私がこの雪村展に足を運ぶ切っ掛けとなりました。

さらには会場のMIHO MUSEUMも、今までに景観の素晴らしさをしばしば耳にして、
是非一度行ってみたいと思っていたので、この機会に尋ねることにしました。

新名神高速道路を信楽インターで降り、カーナビに従ってゴルフ場とも近接する曲がり
くねった山道を進むと、形の良い石畳の広場を備えたレセプション棟に到達します。

この施設で入場券を購入して、ここからはピストン輸送の電気自動車で美術館棟に
向かうか、徒歩で行くことになりますが、約8分の距離ということなので、私は歩くことに
しました。

綺麗に整備された坂道を進んで行くと、金色に輝くトンネルに入ります。落ち着いた
心地よさに包まれながらトンネルを抜けると、渓谷に掛かる橋を隔てて、木々の緑に
埋もれるように配置された美術館棟が姿を現しました。

建築設計はルーブル美術館のガラスのピラミッドなどで知られる、I.M.ペイによるもの
であると言います。美術館内からの周囲の山々の見晴らしも素晴らしく、正に別世界で
日常を離れて絵画を鑑賞する趣きがありました。

雪村の絵画を一通り観て、確かな筆力と力強さ、対照的な繊細な表現に魅了され
ましたが、私はやはり、奇想とも言える独特の描写に注目せざるを得ませんでした。

ここまで極端に誇張された一種ユーモラスでもある表現は、私の知る限り中国の
水墨画には見られないので、日本独自の表現法と思われますが、そのような描写の
モジュベーションとなるものは、我々日本人の多くが有し、なかなか表面には現れない
が心の奥深くに内在させている、激情の発露ではないかと思い至りました。

今回に展覧会でも、雪村の影響を受けた後世の画家たちの作品も合わせて展観され、
またここには展示されなくても若冲を初め、その薫陶を受けた画家はさらに多く存在
すると推察されるので、絵画における日本人のDNAの顕現ということについても楽しく
推理する、知的刺激に満ちた時間を持つことが出来ました。

                                         2017年8月6日記

2018年1月10日水曜日

改組新第4回「日展」を観て

恒例の「日展」を観て来ました。今年は京都市美術館の本館が改修中ということで、
京都市美術館別館、みやこめっせ、日図デザイン博物館で分散して開催されて
います。

その内、京都市美術館別館で展示されていた日本画部門は、画面の大きさの割
に鑑賞スペースが狭く、じっくりと観ていられないきらいがありましたが、中でも
潘星道の特選受賞作「TOUKEI」が、水墨調の力強い表現で、スピード感もあり、
異彩を放っていると感じました。

他にも村山春菜「巣箱を立つ日(720号室)」が日本画らしくはないけれど、斬新で
若々しく明るい表現、作者自身の巣立ちを感じさせる物語性もあり、面白いと感じ
ました。

何時ものように工芸美術部門の染色を中心に観ましたが、ベテラン、常連の作家
の慣れ親しんだ匂いを感じさせる作品、従来からの取り組みに新たな試みを加え
ようとする意欲を感じさせる作品に、「日展」を観ることの滋味を味わいました。

染色では、早瀬郁恵の特選受賞作「待宵」の抽象的な染色による造形表現の
上に、所々刺繍をワンポイントとして用いて、作品の表情に温か味や可憐さを付け
加えているのが新鮮で、楽しく感じました。

他には堀内晴美の京都新聞社賞受賞作「水田の譜」が、染色らしいみずみずしく、
リズミカルな色彩効果を活かして、水田の持つしなやかさ、豊かさを自在に表現
して、観る者を心地よい気分に浸らせてくれました。

兼先恵子の「惜別と狂乱の瞬」は、作者の常套手段の女性の手のクローズアップ
を用いながら、その表現法、屏風仕立ての方法にも工夫を凝らし、雅やかさと
女性の情念を同時に浮かび上がらせて、さすがと感じさせられました。

2018年1月8日月曜日

松山大耕「現代のことば 宗教と科学」を読んで

2017年12月25日付け京都新聞夕刊「現代のことば」では、妙心寺退蔵院副住職
松山大耕師が「宗教と科学」と題して、ips細胞を例に、科学技術に対して宗教が
倫理性とという観点から関わっていくことの重要さについて、語っています。

宗教家が最新の科学について見識を持ち、社会に安心を与えるという意味で
提言をすることも有意義であると思いますが、私はこの論を読んで、科学と倫理
の関係という点に問題意識を持ちました。

過去にも、社会に大きな影響を与える最新の科学技術が、有用性ばかりが喧伝
されて開発が進められ、その結果甚大な被害をもたらす事態が発生しています。

原子爆弾の開発にしても、その爆弾の投下によって戦争が速やかに終息すると
いう名目で研究が進められ、その結果が広島と長崎の未曾有の悲惨な事態で、
また一度開発されてしまった核爆弾は、現代の国際社会でもその削減、廃絶に
多くの良識ある人々が頭を悩ませるという状況です。

原子力発電も、原子力の平和利用とクリーンエネルギーの供給としてもてはやされ
ながら、我が国でも先の東日本大震災の福島第一原発での大事故によって、その
危険性が白日の下になりました。

現在のips細胞やゲノム編集などの生命科学の最新の技術も、マスメディアでは
その有用性が盛んに取り上げられて、その情報に触れる私たちも、その多くが
問題意識を持つことなしに受け入れていると言えます。

生命科学のこれらの新技術も、一つ間違えれば重大な事態が発生することを
我々も重く受け止め、生命倫理という観点から、その歯止めの基準の必要性にも
目を向ける冷静さや賢明さも、求められているのでしょう。

2018年1月5日金曜日

新海誠監督「君の名は」を観て

以前から観たいと思っていた、2016年制作の大ヒットアニメーション映画「君の名は」が、
テレビ地上波で初公開されるということで、早速観ることにしました。

期待通りなかなかの感動作で、何回も観たという人が私の周囲にも数人いることからも
分かるように、ラストシーンが深い余韻を湛え、心に残る映画でした。

まず第一に映像が素晴らしいと感じました。彗星が流れる天空の荘厳で、神秘的な
光輝を放ちながらも、どこかはかなさを感じさせる美しさ。主人公の一人、少女三葉が
暮らす飛騨の神社の神域である、山中のかつての隕石の衝突の痕跡と思しき場所の
場景の雄大さ、一面の緑に包まれた美しさ。

これらの情景描写が物語に幻想的な雰囲気を与える一方、映画を観る者をも物語の
世界に包み込むような一体感を現出させるように感じました。私には、宮沢賢治の
『銀河鉄道の夜』の作品世界に通じる感興が、心に浮かびました。

さて、東京に暮らすもう一人の主人公、少年瀧と三葉の心が入れ替わるストーリー
には、三葉が神社の神主の祖母と作る組紐が深く関わっています。伝統的な手芸品で
ある組紐が、人の手によって丹念に糸を絡めながら作られるように、主人公二人の
関係は入れ替わり、立ち替わり、時には時間さえさかのぼって醸成されます。

それは現実の世界では実際にはあり得ないことではあるけれど、もし人の心の認識と
いうものが、脳内では現実と記憶が入り混じって形成されるものであるならば、
あるいは、民話や伝承の世界が確かに存在し、また運命的な出来事や奇跡が現実に
起こると信じることが可能なら、この物語は説得力のあるリアリティーを持っていると、
感じることが出来るはずです。

そして新海監督が創り出す映像とストーリーは、この映画の中でそれを生み出すことに
成功しているのです。

映画のラストで、それまで互いを求めながらも、直接に巡り合うことが叶わなかった瀧と
三葉がとうとう出合った時、それをハラハラしながら見守っていた私たちも、二人の
運命的な絆を信じ切ることが出来た安堵によって、深い感動に包まれたのではないで
しょうか。

2018年1月3日水曜日

鷲田清一「折々のことば」974を読んで

2017年12月27日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」974では
コラムニスト中野翠の『この世は落語』から、次のことばが取り上げられています。

 いまは「ためになる」とか「役に立つ」以外のものは存在しちゃいけないような
 風潮があるけど、私はそれがどうにも不快なんです

落語という話芸の魅力のエッセンスは、このことばに凝縮されているようにも感じ
ます。だってものの損得勘定や有益な情報とは無縁、あるいはかなり常識とは
外れた法螺話で、お客を楽しませるのですから。

でもその話から時として笑いの中に、反面教師的であったり、客の琴線をくすぐる
ような形で、人情や人としてなすべきものの道理が立ち昇って来る瞬間があるの
ですが・・・。

しかし最近の風潮では落語より漫才が隆盛なのは、古典に裏打ちされた話芸
より、掛け合いの妙によって反射的にすぐに笑える、また複数人で演じるために
目新しい芸や時事ネタが盛り込みやすい漫才が、観客に広く支持されるのかも
知れません。

これも存外話芸の中でも、浮世の憂さを晴らすために即効性があるという意味で
「ためになる」とか「役に立つ」漫才が、一般に受け入れられやすいということで
しょうか?

とはいえ、同じ演目をどの噺家がどういう風に演じるのかということに面白味の
核があり、個人が語るという意味での名人の芸を堪能することが出来る落語の
魅力は、まるでいぶし銀のようで捨てがたいものがあります。

一時関西では目に見えた退潮を囁かれながら、繁昌亭の誕生と軌道を同じく
して、落語人気が盛り返して来たのは喜ばしいことだと、私は心から思って
います。

2018年1月1日月曜日

恒例の伏見稲荷大社へ初詣

年が明けて、2018年になりました。今年も恒例の初詣に伏見稲荷大社へ行って
来ました。幸い寒さもそれほどではなく、晴れたり曇ったりの穏やかな天気で、
相変わらず夥しい数の参拝者で賑わっていました。この時期にお稲荷さんに来ると
元気を頂ける気がします。

私たちの店の昨年を振り返ってみると、白山紬の儀式用の風呂敷としての需要は
どんどん細って行き、それに伴い織屋への発注量も減少しました。室町筋への
その他の白生地の納入も、随分減っています。和装業界の元気のなさをそのまま
反映していると言えるでしょう。

反面一般の消費者の方向けの帯揚の需要は相変わらず堅調ですし、つまみ細工
用の羽二重4匁も好評を頂いております。

他方昨年末、奈良の有名寺院の襖を60面ろうけつ染めで制作されるということで、
まとまった量の白山紬広巾の注文を頂きました。また従来から取引のある染色作家
の方が、紬の着物を制作されるということで、一定量の白山紬小巾の注文を受け
ました。

今回の受注は、厳しい状況の中でも私たちは、白山紬という生地の良さを地道に
紹介し続けて、新たな需要を掘り起こして行く、という思いを再確認すると共に、
新年に向けてそんな私たちを大いに勇気づけてくれると、感じさせてくれました。

私のブログの発信も5年目に入ります。こつこつと続けて行ければと、考えています。