2020年5月28日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1812を読んで

2020年5月11日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1812では
NHK・Eテレ「SWITCHインタビュー達人達」(4月25日)での噺家・柳家喬太郎との
対談から、美学者・伊藤亜紗の次のことばが取り上げられています。

  「身の回り」という感覚がなくなって、共有
  物が増えるんじゃないか。

この美学者が、視覚がないと世界はどんなふうになるかを考えるワークショップを
開いた時、得た洞察の一つだそうです。

なるほど、「身の回りのもの」とは、当人の視覚的認識によって、存在を保証された
ものなのでしょう。なぜなら、たとえ個人所有の特定のものを持っていても、見て
在る場所を確認出来なかったら、すぐに用いることが出来ないのですから。それ
より、幾人かで共有した方が、ずっと合理的に用いることが出来ます。

このように、「身の回りのもの」が私たちの視覚によって初めて保証されているの
なら、見ることが出来なければそれらの品へのこだわりや所有欲も生まれず、その
ような状況は、私たちの日ごろの価値観からは物足りないものに感じられるで
しょう。

でも逆に、「身の回り」へのこだわりのない世界に慣れると、他の人とものを共有
することによって満足を得、ものに関わるわずらわしさや、欲求に囚われること
なく、平穏に生きることが出来るのかも知れません。

では一体、どちらが良いか考えてみると、幸か不幸か私たちは、視覚という感覚
器官を持ち合わせているのですから、その能力の恩恵にあずかって、「身の回り
のもの」を愛でる、わずらわしさは伴うものの、ある意味豊かな生活を送るのが
相応しいのだと、私は思います。

2020年5月25日月曜日

小熊英二著「日本社会のしくみ 雇用、教育、福祉の歴史社会学」を読んで

明治以降の日本人の働き方の特徴、変遷を通して、近代日本社会の仕組みを読み
解く、気鋭の社会学者の書です。

データと関連するそれぞれの分野の専門家の研究を精査して、論を組み立てること
によって、実証的で、説得力のある著述となっています。

私にとっては、現代の社会について薄々感じていたことを、否応なく突き付けられた
具合ですが、まずインパクトが強かったのは、日本人の働き方を大学を出て、大企業
や官庁に就職し、「正社員・終身雇用」の人生を過ごす「大企業型」、地元の学校を
出た後、農業、自営業、地方公務員など、地元で職業に就き、一生を過ごす「地元型」、
長期雇用されていないで、地域に足場がある訳でもない「残余型」に分類した場合、
「大企業型」の比率は、様々な経済変動が起こったにも関わらず、ここ数十年間不変
で、近年の顕著な変化としては、農業、自営業などの衰退によって「地元型」が減り、
その代わり「残余型」が増加しているという事実が、明らかにされていることです。

この論述は、現代日本の国内の社会問題のほとんど全ての要因を網羅していると
言っても、過言ではないのではないでしょうか。

つまり、「大企業型」に属する人々は、長期雇用が実現し、年金を始め福利厚生制度
も充実ししていて、経済的に豊かに生活することが可能な、少数派の特権的な人々
です。しかも、日本の大企業の指定校制度も含む一斉採用、終身雇用という慣習に
従えば、彼らの地位は就職時点で決まるので、大企業に職を得るために、優秀な
大学に入学することが必須になります。子供たちは、早い時点からの一生を左右する
受験競争に、巻き込まれる所以です。

他方、農業、自営業の衰退は地方を疲弊させ、様々な問題を生み出しています。地方
の人口減少、機能低下、大都市の一極集中、食料問題など、益々顕著になって来て
います。

更には、農業、自営業を離れた人々が都会に流れ、非正規雇用やパートタイム労働
の「残余型」となって、貧富の格差が拡大しています。またその部分には、シングル
マザーなど社会的立場の弱い人々も、当然含まれるのです。

本書は日本社会の現状を、働き方という観点からこのように分析していますが、社会
を覆う息苦しさが、目に見えるようです。そして、一見恵まれているように見える「大
企業型」も、過重労働というリスクを抱え、また雇用制度としても、国際競争力の
高まったグローバル社会化の中で、時代遅れの感が否めません。

現状打開の前提として、著者は透明性と流動性の確保と、社会保障制度の充実を
挙げていますが、その具体的方策は思いつけない私にとっても、現状への危機感は、
確かに実感出来る本です。

2020年5月22日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1800を読んで

2020年4月28日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1800では
女優・・小林聡美の随想『聡乃学習』から、次のことばが取り上げられています。

  自分が五十になって思うのは、「こんな未熟
  モノで申し訳ない」ということである。

私は優に60歳を超えましたが、思いは全く同じです。考えてみれば、若い頃から常に、
そう感じて来たと思います。たとえ一度くらいでも、自分は自分の年齢を凌駕している
と、感じる瞬間があってほしかったものですが。

しかし青年期までは、私は自分という存在を卑下していて、自分で未熟者と感じる
度に、更に自信を無くし、行動や発言が消極的になるという、悪循環でしたが、ある
頃からは少なくとも、自分が未熟者と感じることが心を奮い立たせ、生きる励みにも
なったと思います。

それが年の功か、開き直りかは、分かりません。でも確実に言えるのは、ある意味
自分が未熟者であることを、どこかで肯定出来るようになったのかも知れません。

しかしそこが曲者、この肯定感が度を超すと、こんどは増長や現状で満足する怠惰
が顔を覗かせるでしょう。だから、倦まず飽きず、これからも未熟者の自分と付き
合って行きたいと思います。

2020年5月19日火曜日

新型コロナウイルス感染症の日本の感染者数、死亡者数から感じたこと

私たちの国では、新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言が、39県で解除
され、コロナ禍もまだ予断を許さないとはいえ、ようやく下火の兆候を見せて来たよう
に思われます。

この間国内で、16000人以上の人の感染が確認され、また760人余りの人が亡く
なりました。まさに歴史的な感染症による災禍であると言えるでしょう。

しかしながら日本は、この感染症が最初に発生した、同じ東アジアに属する中国に
地理的に近く、また経済的、人的交流も盛んであるために、感染症拡大の早い時期
に国内最初の感染者が生まれたにも関わらず、その後感染が広がったヨーロッパ
諸国やアメリカ合衆国などに比べて、現在の時点で、感染者数も死亡者数もかなり
少なく抑えられています。

感染者数に関しては、我が国ではPCR検査の数がかなり少なく、これらの国々に
比べて実勢の感染者数が反映されていない、という指摘もありますが、少なくとも
死亡者数はかなり低く抑えられている、ということが出来るでしょう。

そこで私なりに、少し落ち着きを見せて来たこの時点で、日本でこれらの数が低く
抑えられた理由について、考えてみました。

まず死亡者数については、このウイルスが多くの人にとって、感染しても無症状か
比較的軽い症状で治癒する反面、高齢者や持病のある人にとっては、急速に重篤
化し、死の危険をもたらすという特徴があるので、死亡者数が多い国では、高齢者
の死亡者が圧倒的に多いという事実があります。

その点で日本では、高齢者施設の感染症予防対策が行き届き、また患者が重篤化
した場合対処する医療技術の高さもあると、推測されます。

次に感染者数に関しては、このウイルスは発症前の無症状の時点でも感染すると
いう厄介な性質があるために、感染が拡大しやすく、また密集した閉鎖的空間で
爆発的に拡大するというリスクもあるので、人の移動を極力減らし、密集を避ける
ことが一番の感染予防となり、特に通勤、通学、娯楽などでの人の集まりを制限
することが求められることになるのですが、この行動自粛ということが日本では、
強制力が比較的低いにも関わらずよく守られていて、感染拡大を防いでいるように
感じられます。

この点で私たち日本人は、周囲の目を気にして行動する性質があるので、この自粛
がよく守られているのではないかと、推測されます。ただし、それが主体的な個々の
判断による限りは好ましいことなのですが、自粛生活が長引くほどに、他人の行動を
監視、批判するような風潮が生まれ始めていることは、危惧すべきことだと感じました。

2020年5月14日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1798を読んで

2020年4月26日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1798では
認知心理学者・下條信輔の『潜在認知の次元』から、次のことばが取り上げられてい
ます。

   ヒトは自分の見たいものしか見(え)ない

このことばには、自戒を持ってうなずけます。

私が勘違いで失敗をする時、それは大抵思い込みによると、思われます。例えば、
従来いつもこうであったから、このように対応すべきだと考えて物事を行った結果、
今回に限りそのようにすべきではなかった、というふうに。

このような事態は、前例通りにすることに頭が慣れてしまっていて少しの違いに気づ
かなかったり、前例から推測して導いた方法の導き出し方が間違っていて、結果が
違ってしまう時などに起こります。つまり、自分の経験や予備知識に惑わされて、
正しい判断が出来なかったということで、対象を見たいようにしか見ていなかった
結果と言えるでしょう。

さらには、単純にものを見るという行為においても、私たちは見たい、見るべきだ、と
思う部分だけを見て、その他の部分は見逃しているということも、往々にあると思い
ます。それが証拠に、複数人が一つの情景を見て、後で問われるとそれぞれの答え
がまちまちである、ということも起こり得ます。

では、私たちはこのような種類の間違い、誤認を極力起こさないために、どのように
心がけるべきなのでしょう?

一つはヒトのこのような習性を自覚して、そのような前提で慎重に行動を起こすこと
であり、あるいは、我執を離れて高所から物事を見る習慣をつけ、多様な視点から
物事を判断する、柔軟な思考法を身に付けることでしょう。

これらのことは、多く読書の習慣によって、獲得出来るのではないかと、私は考えて
います。

2020年5月11日月曜日

「伊藤亜紗の利他学事始め 不安を救ってくれた言葉」を読んで

2020年4月23日付け朝日新聞朝刊、「伊藤亜紗の利他学事始め」では
「不安を救ってくれた言葉」と題して、美学者の筆者が、障害や病を持った友人たちと
ウェブ会議システムを使って「オンライン飲み会」を開催した時、現在のコロナ禍に
席巻されて身動きの取れない世界について、参加者の一人が「いま世界中の人が
障害者になっている」と答えたことに、説得力のあるものを感じた、と記しています。

つまり、「人と間近に関わることを禁じられているこの状況は、全員が「接触障害者」
になっているとも言える。接触不可という制約を抱えたまま社会的活動を維持しよう
とする姿は、失明した人が、視覚を使わないで世界を認識する方法を獲得する過程
のようだ。」と言うのです。そして、障害を持つ人の体験から生み出された確かなこの
言葉に、救われる思いがしたと記しています。

私はこのエッセイに、目を開かれるものを感じて、感銘を受けました。確かに私たち
が今直面しているこの事態は、かつて全く経験したことのないものであり、しかも
ウイルスというその相手が目には見えず、触れることも出来ず、しかし現実にどこか
に感染者がいて、自分も感染するリスクがある、という雲をつかむようで不安だけが
募り、各々が従来の基準からは社会的に孤立することを求められる、感染症の蔓延
独特の陰鬱な空気感を持ち、しかもそれがいつ終息するとも分からない、漠然とした
理不尽さを伴うものであるからです。

このような、私たちが今まで当たり前に享受していた心身の自由が突然に奪われて、
どう対処していいのか戸惑い、途方に暮れている時に、自らに課された制限を長い
時間をかけて自力で乗り越えて来た障害を持つ人々が経験を語ることが、励まし、
力を与えてくれるということに、接触は出来ない時ども、多様な社会ならではの絆の
存在を、感じる思いがしたからです。

これから、このコロナウイルス感染症との戦いが、いつまで続くとも分からない状況
の中で、我々が社会的絆を保つ秘訣の一つとして、SNSなどを使って多様な人々が
ポジティブにつながることの必要性を、改めて感じました。

2020年5月7日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1795を読んで

2020年4月23日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1795では
美術家・横尾忠則の『死なないつもり』から、次のことばが取り上げられています。

   強制的にさせられる努力は、もろいのです。

これは、紛れもない真実でしょう。でも、ここが厄介なところなのですが、ある物事
に取り掛かるきっかけの部分では、強制的に始めるように仕向けられる場合が
往々にあるということです。

何も最初から、自分が好きで物事を始められたら、それに越したことはありません。
でもほとんどの場合、最初はその事が好きか、分からないものです。

だから、強制的でもきっかけを与えられて、やりだしたら興味がわいて、楽しくなって、
夢中になって、どんどんそれに打ち込んで行くというのが、理想的だと思います。
つまり結局、自分の取り組み始めたことを、ポジティブに受け取り、そこから楽しみ
ややり甲斐を見つけ出して、自分の意志で努力するようになるのが、秘訣でしょう。

もう一点、強制されることの危険なところは、強いられてやる努力は、自発的な努力
に比べて、それをやる理由を考えなくていいという意味で、楽であるということです。
つまり、その理由は強制する側に一任しておけばよく、自分はただがむしゃらに努力
を続ければいいのであって、ついつい惰性に流されてそれを続けてしまう、という
ことも起こり得るでしょう。

ただしこのような場合、途中でふと、自分が何のためにこの努力を続けているのか
分からなくなった時に、突然の挫折が訪れるということです。

このように考えると、自分が現在続けている努力に対して、いち早くその理由ややり
がいを見つけ出すように心がけることも、その努力が長続きする秘訣であるように、
思われて来ます。

2020年5月4日月曜日

カミュ著「ペスト」新潮文庫を読んで

中国武漢に端を発する、新型コロナウイルス感染症の瞬く間の世界的な広がり、そして
日本でも全国的に緊急事態宣言が発動されて、今なお自粛生活を余儀なくされる中で、
先人は深刻な感染症をいかに想定し、その恐怖に直面する人々をどのように描いたか
を少しでも知りたいと思い、本書を手に取りました。

物語の舞台は、1940年代のフランス植民地アルジェリアの主要な港町オラン。この町
を突如として襲い、全面的な封鎖に至らしめた感染症は、当時圧倒的な致死率を示し
たペストと、今回のコロナ禍とは色々な部分で条件が違いますが、この本を読み終えて
まず感じたのは、感染症の猖獗がそれを目の当たりにする人間に与える不安、孤独、
絶望の普遍性です。

まず危機感をはらむ感染症の流行は、致死率の違いによる深刻度の軽重はあるに
しても、直面する人間に強く死を意識させます。しかもその元凶が目に見えず、手に
触れることが出来ないものであるだけに、人々は漠然とした不安に囚われます。更に
は、感染症は人から人に伝染して行くために、生活の色々な場面で接触する不特定の
人間が、あるいは感染者ではないかと、人間不審、疑心暗鬼を募らせて行きます。

そして遂には、感染症がその地域に蔓延すると、他地域に感染を広げないためにこの
地域は封鎖され、中に閉じ込められた人々は、恐怖と孤独と絶望、焦燥感のないまぜ
になった感覚に陥ります。

その結果として、物語のオランの住民の中には、飲食店で無闇に酒をあおって現実を
忘れようとしたり、禁じられているにも関わらず町から脱走しようとしたり、自身の感染
を確信して自暴自棄になり、見ず知らずの人を道連れにしようとして抱き付いたりする
者が現れます。これらの行為は、現在我が国で一部の人々が実行して顰蹙を買う行動
と、あまりにも酷似していて驚かされます。

他方困難な状況でも、患者の治療に専心する主要登場人物の医師、危険を顧みず民間
ボランティアとして彼を助ける篤志家の人々には、頭が下がる思いがします。この点は
現在のコロナ禍においても、私たちも大いに考慮すべき部分です。

いつかは、この感染症も終息するでしょう。その後、社会も各個人も今回の事態から多く
を学び、来るべき新たな脅威に備えることは言うまでもなく、現実のコロナ禍の渦中に
おいても、我々は他者を思いやり、自身に対しても誠実な行動をとるべきであることを、
本書は教えてくれます。