2023年4月27日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2702を読んで

2023年4月13日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2702では 我が国を代表する音楽評論家・吉田秀和の随想集『文学の時』から、次のことばが取り上げられ ています。    芸術は生活を飾る花、余裕があってはじめて    生まれるものと考えている人が多いけれど、そ    れは逆。芸術は生活の根なのです。 1989年のベルリンの壁崩壊後の、東欧世界の変化を見守りながらの吉田の感慨です。 確かに、ソ連をはじめとする東欧圏では、クラシック音楽やバレーは国家の手厚い庇護の下に 隆盛を極めたけれど、文学など思想が絡む分野においては、体制に反逆するものにしか、優れた 仕事は生まれなかったように感じます。 つまりビビットに現在を映す分野において、芸術は切実に生活に根差すものなのでしょう。 今ベルリンの壁崩壊後の東欧世界の行く末として、ロシアによるウクライナ侵攻が行われていま すが、この惨劇の後にどのような世界が生まれ、優れた芸術が生み出されるのか、この戦争の 早期終結を祈りながらも、来るべき世界の指針を示す芸術の誕生に、大いに期待しています。

2023年4月19日水曜日

開高健著「珠玉」を読んで

三つの宝石に因む、三つの物語で構成された作者の絶筆です。 およそ30年前に刊行された単行本を開いていると、本のケースの表題に目をとめた、自家用車の 定期点検に訪れていたディーラーのあるスタッフの方から、開高の絶筆を読んでいるのですね、 と驚かれました。没後長い年月を経ても、作者の知名度が色あせないことに、感銘を受けました。 絶筆と謳われるだけあって、海の色、血の色、月明の色に象徴される、三つの宝石を媒介とした 回想と魂の彷徨の物語です。 これらの物語を読んでいると、生前絶大な人気を誇ったこの作家の人生がどのようなものであった か、また彼の興味がどのようなことに向いていたかを、大枠で捉えることが出来るように感じま した。 まず、海の色の宝石にまつわる「掌のなかの海」では、開高が物書きとして自立すべく独立後、 まだあまり仕事もなく、妻子を抱え焦燥感に駆られる様子が印象に残りました。することもなく、 仕事の題材を探す口実で家を出て、映画を観る。その後こだわりの強いバーテンダーのいるバー に寄って、時を過ごす。そのバーでの作者が酒を飲む様子、バーテンダーとのやり取り。その 描写が如何に秀逸であることでしょう!この今日的な合理性とは対極にある行動が、作家開高健 を作り上げたことが分かります。 更には、このバーで知り合った行方不明の息子を捜す医師の身体が、そこはかとなく発する哀しみ は人生の無情を感じさせ、作家の目線がそのようなところにも強く惹きつけられていたことが分 かります。 血の色の宝石に因む「玩物喪志」では、行きつけの中華料理店の中国人店主とのやり取りから始 まって、その友人の料理の腕はあるのに、賭けマージャンで自らの店を失い、元の自らの店で コックとして働く男のやるせなさを描くことによって、人間の者狂おしさ、人生の理不尽を表わし、 またベトナム戦争の従軍作家として目にした夥しい血の色について、冷静な筆致で描き出すことに よって、戦争の悲惨さを浮かび上がらせます。 月明の色の宝石に因む「一滴の光」は、一転して老いらく性愛の物語で、私の知る限りでは、この 時代の日本の小説では好色文学を除いて、私小説風にこのような題材を赤裸々に描いた作品は少な かったと思いますが、開高は自らの欲望をさらけ出すように大胆に、初老の男と若い女の淫らな 行為を表現しています。ここにも男の願望を掘り下げ、描き続けたこの作家の確かな姿が現れて いると感じました。

2023年4月11日火曜日

吉本隆明著「吉本隆明のメディアを疑え あふれる報道から「真実」を読み取る方」を読んで

戦後思想に重要な足跡を残した思想家・吉本隆明が、時事的な社会問題について考え、発表した文章を、 まとめた本です。 今から20年前、2002年出版の書なので、その時語られた時事的問題は、当然一昔前のものになります。 しかし20年の時を経て読んでみて、隔世の感を感じるよりも、時代は繰り返されるとでも言うか、ある いは、人間の行いは変わり映えしないというような、当時と現在の類似性に驚かされるところがありま した。 例えばこの本で吉本は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの報復として米国が行った、アフガニス タンへの激しい空爆を伴う攻撃を、大国の一方的な論理による攻撃として非難しており、今日では歴史 的にもそのような評価が定着していると思われますが、今現在の世界においても、大国ロシアによる 小国ウクライナに対する一方的な軍事攻撃が行われています。 あるいは、吉本はオウム真理教の一連のテロ事件において、地下鉄サリン事件でオウムがサリンという 化学兵器を初めて、公衆が集まる所で使用したことの衝撃を記し、ー私自身も、改めてこの異様な教団 のことを思い起こしましたが、今日でも、安倍元首相暗殺事件を切っ掛けに、統一教会による信者への 多額の献金強要と、それに伴う信者家庭の崩壊が大きな社会問題となっています。 また、薬害エイズ事件について吉本は、非加熱輸入血液製剤を使用して血友病患者がエイズに感染し、 多数が死亡した根本の原因は、当時の厚生省の薬事行政にあるのに、この治療を委嘱させた医師団の長 や、一介の厚生省の課長補佐に責任の全てを押し付け、決着させてしまったことの不正を憤っています が、今現に進行中のコロナ禍における医療政策や行政の混乱、ワクチン接種の推進に伴う重い副反応の 問題などは、後年の丁寧な検証が必要でしょう。 このように列挙しても、それぞれ個別の状況の違いはあっても、類似する部分には共通性があると、思 われます。 本書で吉本はまた、マスメディアには体制に迎合するきらいや、大衆の気分を煽る傾向があるので、受 け手もその点に十分に注意して、報道に接しなければならないと語っています。この点は肝に銘じなけ ればならないと、改めて思いました。 非行少年犯罪の厳罰化について、最近は大人が幼児化していること、世間に潔癖さを求めすぎている ことによる社会の息苦しさの指摘には、共感できるところがありました。

2023年4月5日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2686を読んで

2023年3月28日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2686では 幕末に活躍した旧幕臣・勝海舟の、明治29年に各地で起きた津波や洪水にふれて語った『氷川 清話』から、次のことばが取り上げられています。    昔の人は……人目に見えるやうなところに頓    着しない。その代わりに誰にも見えない地底へ、    イクラ力を籠めたか知れないよ。 これは、堤防を造るにしても、とにかく地下を深く掘り下げ、固めてから始めたし、炊き出し 用にお蔵米をしかと準備し、急場の治療の体制を整え、いざとなれば年貢も寛めた、ということ のようです。 確かに大きな被害をもたらす地震等自然災害が各地に頻発し、防災の必要性が強く叫ばれる今日 においても、天気の観測、震災予知の技術は江戸時代に比べて格段に進歩したとはいえ、実際の 災害への備えという意味では、ついつい経済的効率を優先して、結果として十分な準備が出来て いないように感じられます。 これは、目まぐるしく社会情勢が変化する現代社会において、またいつどこで起こるか分から ない災害への備えということで、なかなか充実した災害対策が取りにくいというジレンマもあり ますが、昔の人の地に足の着いた防災感覚には、学ぶべきことがあると思います。 更には防災に限らず、社会活動の色々な部分において、うわべだけではなく、基本的なところ から物事を構築する姿勢も、大切でしょう。