2023年11月21日火曜日

原一男著「全身小説家 もうひとつの井上光晴像」を読んで

同題の秀作ドキュメンタリー映画の制作ノート・採録シナリオです。私はこの映画を約30年前、京都国際 映画祭の上映作品として観ました。随分昔の話で、断片的なシーンや、おぼろげなイメージしか残って いません。しかし映画を観た当時私は、作家井上光晴について何の予備知識もなかったので、それを観て の感想も漠然としたものでした。 でもその後、井上と深いつながりがあった、作家瀬戸内寂聴の作品に興味を抱き、そこから彼女と井上の 関係、同じく作家である彼の娘荒野の視点からの二人の関係を知り、そして井上光晴の小説も読みました。 30年余りを隔てていますが、本書からこの映画を振り返ってみることも、新たな気づきを生むのではない かと思い、この本を手に取りました。 ドキュメンタリー映画で捉えるのは、ガンに冒された井上の最晩年の姿です。彼は著名な作家として、文学 振興のために自ら主催する、小説家志望者の養成機関伝習所を献身的に運営し、ガンが転移して末期的症状 を呈しても一縷の希望を失わず、命つきるまで作品を書くことに執念を燃やす、文字通り小説界の鬼才と いうイメージを与えます。 しかしこの映画が描くのは、それだけでは止まりません。親族、関係者へのインタビューから、井上が公表 している経歴や常々語っている回想に、真実と虚構が巧妙に混ぜ合わさっていることが判明し、彼が人たら しで、特に女性関係にだらしがなく、瀬戸内寂聴を含め、数々の女性と浮名を流し、家庭ではそのような夫 を郁子夫人が懸命に支えてきたことが分かります。そしてそれら全てを統合することによって、全身をもっ て虚構に生きた作家井上光晴の全体像が浮かび上がるのです。 彼自身が語るように、フィクション(虚構)の本質は、現実以上の激しい嘘の物語を作ることであり、彼は 身をもってそれを体現したのでしょう。ただ忘れてはならないのは、彼は虚構にまみれながら、その根底に は人間愛と社会正義への希求があり、それこそが井上文学の魅力であったのだと思われます。 またこの映画は、彼を通してフィクションの本質を問いかけていますが、原監督自らその制作意図を語る 本書を読むと、ノンフィクション作法の中の作為ということについても考えさせられます。つまり、ノンフ ィクション作品は、現実をありのままに描いたものではなく、監督の意図をもって作り込まれたものである ということです。フィクションとノンフィクションの奥深さについても考えさせられる読書でした。

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