2025年5月21日水曜日
高田里恵子著「文学部をめぐる病い」を読んで
戦前から戦後にかけての東大文学部独文科出身のドイツ文学者の振る舞い、業績を通して、文学部という特殊な
世界を明らかにすると共に、彼らが日本の思想、文学界に与えた影響を振り返る書です。
私自身にとっては、文学部は縁遠い世界ですが、彼らが日本のドイツ文学受容の橋渡しをしたという意味では、
全く恩恵を受けていない訳ではありません。
事実私は、中学生時代に教師に勧められてヘッセの「車輪の下」を読んで感銘を受け、以降トーマス・マンへと
読み継いで、自分の人格形成期に少なからぬ感化を受けました。また最近はカフカを読んで、混迷の時代の心の
持ち方を示す文学であると感じています。
さて、そのような彼らの功績はさておいて、本書が主に取り上げるのは、明治以降の文明開化、いわゆる脱亜
入欧、富国強兵、殖産興業の政治方針に組み入れられた、官立大学に占める文学部の意味と、それ故そこに帰属
する彼らの懊悩です。
つまり彼らは、その分野の最高権威として、ドイツ語、ドイツ文化を日本に紹介する任を担っていましたが、
それが必ずしも、目に見える形で国家の近代化や文化的向上につながる役割を果たした訳ではない、ということ
です。すなわち、文学が実利的ではなく、教養主義的な性質もあって、彼らは学部内でいかに優秀な成績を修め
て卒業しても、教師としてのドイツ文学紹介者にしかなれなかったということです。
本書の前半では、そのようなドイツ文学者の好例として、高橋健二が取り上げられていますが、彼は戦前から
ヘッセの翻訳者として知られ、ドイツでナチス台頭後はナチスを賞賛する作家の日本への紹介を行い、戦後は
ナチスに批判的であったヘッセを、改めて評価する活動を行ったといいます。
また、戦中は大政翼賛会文化部長として、思想統制の一翼を担いながら、戦後には自らのその行動を、抑圧的な
体制の内部に入り込んで、良心的な抵抗活動を行っていたと、弁明したといいます。この日和見的な行動は、
現代的見地に立てば不誠実であると感じられますが、彼が時の国情に適う文化の紹介者としての務めを果たして
いたようにも思われます。そこには、急激な近代化を遂げたこの国の、様々な矛盾が関わっているように感じら
れます。
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