2019年11月13日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1638では
法学者・土屋恵一郎の『能』から、次のことばが取り上げられています。
面をつけることは、視野のうちから自分自身
の姿を消すことである。
自身も能に親しむ、この法学者の感慨です。
私も以前、能楽の謡と仕舞を習っていた時に、一度だけ装束と面を付けさせても
らったことが、あります。
いざ付けてみると、体の自由はかなり制限され、視界は極端に狭められます。体は
装束と紐で厳重に締め付けられ、視界は面に穿たれた小さな穴から、かろうじて
正面前方がのぞき見られるだけです。
能役者はその状態で、囃子や地謡に合わせて舞台上で舞を演じ、謡うのですから、
その能楽の全てを掌握、暗記していなければならず、舞台上の自身の体の位置取り
も、わずかに視線が捉える四隅の柱との距離から、いちいち推測しながら演じなけれ
ばならないのです。
初めてその出で立ちを体験した私は、途方に暮れるししかありませんでしたが、
実際の能演者にとっても、それが無防備な状態であることは、間違いないでしょう。
それ故に舞台上で観客の視線を集めて、かえってその役になりきり、演じることが
出来るのかも知れませんし、無防備さを逆手に取った気迫が、演技の迫真性を生み
出すのかも知れません。
我々素人には、奥深いことは分かりませんが、少なくとも、謡や仕舞を習うことに
よって自身の集中力や胆力を養うことが出来たとともに、優れた演者の舞台から、
能楽そのものの魅力だけではなく、それを現出させる演じ手の研鑽をくみ取ることが
出来るようになったことは、私にとっての収穫だと思います。
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