ドイツに在住、日本語、ドイツ語で作品を発表し、近年評価の高い作家、詩人多和田
葉子の近刊小説を読みました。多言語社会であるヨーロッパを舞台にした、言語とは
如何なるものかを問う、作品です。
私のように日頃、極東の島国日本から離れないで暮らす者にとって、日本語という
母語は何の疑いもなく自明のものであり、空気のような存在です。
確かに近年は、インターネットの空間において多国籍の言語が飛び交い、私たちの
住む京都では外国人の観光客も飛躍的に増えて、他言語に接する機会も格段に増し
ました。
しかし依然として、日常の交友関係、生活環境を満たす言語が日本語であるために、
私たちはこの言語にすっかり馴らされて生きています。そのような社会環境において
は、言語とは如何なるものかというような疑問は、なかなか生まれて来ません。
従って本書の主題は、海外在住、日独両言語で文学活動を行い、コミュニケーション
も図る、彼女に相応しい題材です。
さて本書で展開される物語は、閉鎖的な環境で生きる私には、なかなか実感として
理解することの難しい類のものです。それ故私は物語の結末で、ストーリー展開を
あまり理解しているとは言えない私を包んだカタルシスから、本書の内容を読み解い
て行きたいと思います。
物語の末尾、現在ヨーロッパ圏内で暮らすということ以外、国籍も人種も、母語も、
はたまたジェンダーまで違う若者たちが、失われたらしい言語の探求という一点の
興味に惹かれ、南アルルに集います。そこでは当初の目的を果たすことは出来ません
が、その代わり新たな課題が見つかり、仲間を増やし、絆を深めて、言語探求の旅を
続けて行くことを確認し合います。
私が何故この結末において、解放感を味わったかというと、心の中に通じ合うものが
あれば、人は社会的な制約や差異を超えて、深いところでつながることが出来るので
はないかと、その大きな可能性を感じたことと、あるいは文化や言語を異にするもの
が、互いにコミュニケーションを結ぶべき手段(共通言語、自動翻訳機など)を持つこと
が出来れば、世界の可能性は飛躍的に広がることを示していると、感じたからでは
ないでしょうか?
言語というものを通して、現在閉塞感に苛まれている国際関係の打開の可能性まで
示唆する、国際感覚に溢れ、視野の大きな小説です。
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