2019年11月2日土曜日

多和田葉子著「地球にちりばめられて」を読んで

ドイツに在住、日本語、ドイツ語で作品を発表し、近年評価の高い作家、詩人多和田
葉子の近刊小説を読みました。多言語社会であるヨーロッパを舞台にした、言語とは
如何なるものかを問う、作品です。

私のように日頃、極東の島国日本から離れないで暮らす者にとって、日本語という
母語は何の疑いもなく自明のものであり、空気のような存在です。

確かに近年は、インターネットの空間において多国籍の言語が飛び交い、私たちの
住む京都では外国人の観光客も飛躍的に増えて、他言語に接する機会も格段に増し
ました。

しかし依然として、日常の交友関係、生活環境を満たす言語が日本語であるために、
私たちはこの言語にすっかり馴らされて生きています。そのような社会環境において
は、言語とは如何なるものかというような疑問は、なかなか生まれて来ません。

従って本書の主題は、海外在住、日独両言語で文学活動を行い、コミュニケーション
も図る、彼女に相応しい題材です。

さて本書で展開される物語は、閉鎖的な環境で生きる私には、なかなか実感として
理解することの難しい類のものです。それ故私は物語の結末で、ストーリー展開を
あまり理解しているとは言えない私を包んだカタルシスから、本書の内容を読み解い
て行きたいと思います。

物語の末尾、現在ヨーロッパ圏内で暮らすということ以外、国籍も人種も、母語も、
はたまたジェンダーまで違う若者たちが、失われたらしい言語の探求という一点の
興味に惹かれ、南アルルに集います。そこでは当初の目的を果たすことは出来ません
が、その代わり新たな課題が見つかり、仲間を増やし、絆を深めて、言語探求の旅を
続けて行くことを確認し合います。

私が何故この結末において、解放感を味わったかというと、心の中に通じ合うものが
あれば、人は社会的な制約や差異を超えて、深いところでつながることが出来るので
はないかと、その大きな可能性を感じたことと、あるいは文化や言語を異にするもの
が、互いにコミュニケーションを結ぶべき手段(共通言語、自動翻訳機など)を持つこと
が出来れば、世界の可能性は飛躍的に広がることを示していると、感じたからでは
ないでしょうか?

言語というものを通して、現在閉塞感に苛まれている国際関係の打開の可能性まで
示唆する、国際感覚に溢れ、視野の大きな小説です。

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