2019年11月6日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1624を読んで

2019年10月29日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1624では
「語り声の現場」(河合隼雄ほか著『声の力』)から、詩人谷川俊太郎の次のことばが
取り上げられています。

  メールの文体というのは、相手に対する一種
  の甘えの形式みたいなところがすごくありま
  すね。

メールはパソコンにしても携帯電話にしても、手紙に比べて格段に手軽です。特に
携帯なら日常的に持ち運びしているのですから、会話の延長のようなところがあり
ます。

それでいて相手は目の前にいる訳ではなく、表情や口調は感知することが出来ない
上に、機械でつながっているだけなので何か心もとなく、おまけに相手の発信から
ワンテンポ置いて返信することになるので、タイムラグの生み出す微妙なずれも感じ
ます。

そのような条件では相手との距離がつかみにくく、よそよそしくなるか変に親しげに
なり過ぎるかの、リスクが大きいように感じます。

だからやり取りを繰り返しているうちに、実感もないままに親しみを出そうとして馴れ
馴れしさに陥ったり、相手の反応を勝手に推し量って、自分勝手な物言いになって
しまったりするのではないか、と思います。十分に注意しなければならないところです。

更には、SNSでの不特定多数をも含む他者とのコミュニケーションの場合には、特に
発信者が匿名性を帯びる場合、相手を傷つけることにもなる誹謗中傷を繰り返す
ことも、多々目撃されます。

私たちは、相手が目に見えない場合にこそ一層、相手の立場に立ってコミュニケーシ
ョンを図るよう心掛けなければならないのだと、感じます。

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