2019年11月15日金曜日

ジュリアン・シュナーベル監督映画「パスキア」を観て

同監督の作品「永遠の門 ゴッホの見た未来」が、劇場公開されているのに合わせて、
1997年公開の映画「パスキア」の私の映画評で、キネマ旬報9月下旬号に掲載された
ものを、このブログに再録させていただきます。


絵画が一部の特権的な人々の興味の対象から、大衆のものへと移行した時、画家の
心の持ち方にどのような変化をもたらしたのか?

冒頭、パスキアの才能に対比するものとしてゴッホについて語られるナレーションは、
その時代の隔たりを、私に想起させずにはおかない。なぜなら、ゴッホは生活のため
に自らの絵が売れることや、あるいは、評価されることを渇望していたとしても、恐らく
人気者になることは意識していなかったからである。

パスキアは自己の才能に絶大な自信を持ち、表現への衝動に駆られて描いた。そこ
には芸術家としての純粋な姿を見ることが出来る。しかし同時に、有名になりたい、金
持ちになりたいという思いが前面に出る時、その輝きに暗い影が忍びより始める。

金儲けのために才能に群がる人々・・・、あるいは、パスキア自身の心の中にある後ろ
めたさに起因する、自分が周囲に利用されているのではないかという猜疑・・・。彼は
自らの養う魔のために、有名になればなるほど孤独になる。

芸術が大衆化することによって新たに創出された欲望は、作家を創造の上の苦しみ
だけではなく、世俗の塵埃にも埋没させかねない。また価値の多様化の中で、感覚と
新しさをことさら重視する美術作品の曖昧な評価基準は、その作品を商品化し、心あ
る愛好家を遠ざけかねない。

「パスキア」は一人の生き急いだ天才画家の生き様を描くことによって、現代美術が
抱える深刻な問題をも浮き彫りにしている。これはパスキアと同じ世界を同時に生きる
シュナーベルが監督することによって、自らの意志を越えて達成された成果であると
思う。

数多くの名優、個性派の演技は言うまでもなく素晴らしいが、そうそうたるメンバーに
食われないジェフリー・ライトのパスキアは出色であった。ゲイリー・オールドマンの
アルバート・マイロのキャラクターが少し弱いのは、マイロのモデルがシュナーベル監
督自身であるということで頷ける思いがする。

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