2015年5月17日日曜日

漱石「それから」における、代助の鬱屈と諦念

2015年5月14日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第三十一回)に、代助がここ三、四年の心境の変化について語る、次の
記述があります。

「代助が真鍮を以て甘んずるようになったのは、不意に大きな狂瀾に
捲き込まれて、驚きの余り、心機一転の結果を来たしたというような、小説
じみた歴史を有っているためではない。全く彼れ自身に特有な思索と
観察の力によって、次第々々に鍍金を自分で剥がして来たに過ない。
代助はこの鍍金の大半をもって、親爺が捺摺り付けたものと信じている。
その時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を
受けたものは、みな金に見えた。だから自分の鍍金が辛かった。早く金に
なりたいと焦って見た。ところが、他のものの地金へ、自分の眼光がじかに
打つかるようになって以後は、それが急に馬鹿な尽力のように思われ
出した。」

この三、四年で、代助も変われば、平岡も変わりました。漱石は真鍮、鍍金、
金、地金と、言い得て妙の巧みな比喩を駆使して、代助の倦怠と諦観を
表現しています。

漱石自身が、「それから」の代助は「三四郎」の主人公のそれからの姿である、
という趣旨のことを述べているところから推し量れば、さしずめ「三四郎」が
屈託ない青春時代の悩みを描く小説であれば、「それから」は挫折した後の
若者の悩みを描く小説と言えるでしょう。

そんな代助の心がこれからどのように波立って行くのか、だんだん楽しみに
なって来ました。

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