2019年2月19日火曜日

鷲田清一「折々のことば」1371を読んで

2019年2月9日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」では
劇作家、批評家・福田恆存の1950年代の随想「教養について」から、次のことばが取り
上げられています。

  日常的でないものにぶつかったとき、即座に
  応用がきくということ、それが教養というも
  のです。

この言葉は、福田が信州へ向かう列車内で、粗末な身なりで地の人らしい隣の高齢の
女性から、「窓を開けたいと思うが、迷惑ではないか」と許可を求められ、その女性に
当時としては予想外の西洋流の作法で接せられて驚いた経験に基づくもので、それに
関連して彼女には、見なれぬ人には「距離を保って自分を位置づける」という躾が行き
届いていたからだろう、とも記しているそうです。

この言葉は示唆に富みます。おそらく当時の日本の社会状況では、満足な学校教育を
受けていないであろうこの女性が、見ず知らずの相手に礼儀正しい対応をすることが
出来たということは、彼女が親などからちゃんとした躾を受けて教養を身に着けていた
からと、彼は言っているのです。

いわゆる教養は何も高等教育でしか学べないものではない、公共性を意識し、倫理観
を育む躾は、それを受けたものに教養を身に着けさせることが出来ると、言いたいの
ではないでしょうか?

また、見なれぬ人には「距離を保って自分を位置づける」という身の処し方も、他者への
礼儀として大変大切なことであると思います。最近の一部の子供や無頓着な大人の
公共空間での振る舞いには、思わず眉をひそめたくなるようなものがあります。
現代社会におけるこれらの行為の原因は、さしずめ公共倫理観よりも我欲が勝っている
ということでしょうか?

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