2017年12月12日火曜日

京都国立近代美術館「泉/Fountain 1917-2017」を観て

今年がマルセル・デュシャンの《泉》誕生100年ということで、京都国立近代美術館では
所蔵するこの作品を一年間展示し、併せて現代美術家によるデュシャン解読の作例を
加えながら、現代美術のエポックとも言える《泉》について考える、レクチャーシリーズ
が開催されています。

この興味深い企画を新聞で知り、足を運びました。現在はシリーズのCase4として、
ウェールズ出身のペサン・ヒューズの、デュシャンを巡る思考過程をマインドマップと
して提示するプロジェクトが、併せて開催されていました。

A4用紙に記された、夥しいデュシャンの言葉や作品についての調査メモ、ドローイング
は、外国語の苦手な私には正直ほとんど解読不能でしたが、ただ眺めていても、
デュシャンの生み出した当時先鋭的な作品たちが、西洋美術の歴史的な流れに裏打ち
された思考から生まれたものであることは、理解できました。いやそれ故にこそ、革新的
であったのでしょう。

さてこの企画の展示スペースのメインに据えられた《泉》は、黒い展示台の上に
どっかりと鎮座しています。しげしげと観ると、一昔前の武骨な白い男性便器が、管を
外されて仰向けに置かれ、丸裸で投げ出されているようにも見えます。

つまり便器としての機能は全く奪い取られて、おまけに美術品の役割を担わされている
のは、この便器にとっては至極迷惑のようにも感じられます。

この寄る辺なさ、きまり悪さが、美術という高尚なものへのアンチテーゼであるばかりで
なく、他方この便器が生来有する機能を追求したデザイン性を、その一点において優美な
ものとして評価するなら、十分に鑑賞に耐える作品という見方も出来るのではないでしょう
か?

改めて実物を観て、二律背反的なものとしての謎は、ますます深まりました。

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