2017年12月22日金曜日

鷲田清一「折々のことば」968を読んで

2017年12月21日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」968では
作家司馬遼太郎の対談集から、対談相手の法制史家石井紫郎の次のことばが
取り上げられています。

 自分が普遍的なもののなかにいるという意識がないのがいまの状況だと思い
 ます。

このことばが語られたのは司馬の生前のことなので、20年以上前のことだと推察
しますが、現在は益々この傾向が強まっていると感じます。

人間は自身の人生の中で生老病死の決定に対して制約が多くあれば、それに
寄り添いながら生きて行かなければならないという意味から、社会や他者との
つながりという関係において、謙虚になるのだと思います。

現代の私たちの暮らす社会では個人の権利や自由が尊重され、一見かなりの
自由度で何事でも自分の意志で選択、決定することが許され、また医学の進歩
や栄養摂取条件の向上によって、以前には考えられなかったほどの高齢まで
健康と寿命を保つことが出来るなど、生きることに対する自在感が高まっている
のではないでしょうか?

人は高慢になればなるほど自己中心的に考え、社会とのつながりや、他者との
関係をおろそかにしがちになるのでしょう。この場合私たちが育まなければ
ならないのは、公共心や謙虚さを伴う倫理観だと、私は考えます。上記のことば
の中の”普遍的なもののなかにいるという意識”とは、そのことを現しているのだと
理解しました。

私の仕事柄からも一言付け加えさせて頂くと、儀式というものもそういう心証を
育む役割を果たすと思います。結婚式、葬儀、贈答、年中行事など、しきたりに
そって行うことは、勿論それが過剰になり過ぎてはいけませんが、人との関係を
つなぎ、自分自身の生き方に指針を与えてくれると考えるのですが、古臭いで
しょうか?

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