2016年6月29日水曜日

永田守弘著「日本の官能小説」を読んで

この本を手に取ったのは、青年時代の記憶に残る感覚を跡付けてみたいという
誘惑によるところが大きかったと、読み終えて感じます。

というのは、私が本書が取り上げるような官能小説を、青年雑誌で読んだのは
今は遥かな青春時代で、その当時に感じた心のざわめきや、微かな後ろめたさ
から想起して、あれから30年以上が経過したこの小説分野の履歴が、性表現の
規制に抗う反体制的姿勢や、日陰を歩む存在としての淫靡さをどのように深化
させて来たかということに、強く心を惹かれたからです。

しかし実際に本書を開いてみると、私のこのような期待はある意味裏切られて、
この本が描こうとしているのは、官能小説における時代の変遷にともなう、
性行為の嗜好及び、描き方の技巧の変化ということでした。

そういう訳で少し期待外れだったのですが、これも本書で初めて知ったごとく、
文芸作品がその猥褻性のために当局の摘発を受けたのは、1978年の富島健夫
「初夜の海」が最後で、考えてみればそれ以降の官能小説は、性表現方法に
おいてフリーハンドを獲得したのですから、反体制や淫靡性の衣をまとう必要も
なくなったわけです。全く私のこの小説分野に対する無知からの妄想が、この本
への興味をかき立てた訳で、私の独り相撲といったところでした。

しかし本書のページを繰り、それぞれの時代の官能小説の文章の引用を読み
比べて行くと、私自身は、まだ性表現への規制が厳しかった時代の描写に、へっ、
こんな文章が猥褻なのと驚かされるものも見受けられましたが、何か核心を
ぼかしながら想像を膨らませるような文章に性の奥行きを感じ、思わずときめいて
しまう場面もありました。

結局、私は最早いにしえの時代の人間である、とも言えるのかもしれませんが・・・

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