2016年6月22日水曜日

鷲田清一「折々のことば」435を読んで

2016年6月21日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」435では、
仏文学者多田道太郎の「しぐさの日本文化」から、次のことばが取り上げられて
います。

 はっきりいえば、私たちは他人の「涙」に泣くのではなく、他人の抑制に泣く
 のである

考えてみれば、言い得て妙のことばでしょう。私たちは、例えば肉親とか、自分に
縁や関わりの深い人々の涙には、ストレートに共感して一緒に泣きたくなるかも
知れませんが、交流もない人や、第三者の涙に共鳴するためには、一定の条件が
必要なように感じられます。

その条件の有力なものが、「他人の抑制に泣く」ということではないでしょうか?

例を挙げると、ニュース映像やドラマの中で、自分を支配しそうになる悲しみに
必死で涙をこらえている人が、思わず一筋の涙を頬につたわせた時、観ている
私たちもジンと来て、ついついもらい泣きしそうになることがあります。

反対に、突然激しく泣きじゃくる人に出くわし、その場の状況からある程度、
その人がなぜ感情をあらわにしているのか推測出来ても、私たちがその行為に
共感を覚えなければ、その仕草が奇異に映ったり、時には滑稽に思えたりする
こともあります。

悲しみの抑制という感情の処し方は、私たちもいやというほど経験していること
なので、例え縁もゆかりもない人に対しても、その場面を目撃してしまったら、
こちらの涙腺も思わず緩むのかも知れません。

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