2016年6月24日金曜日

漱石「吾輩は猫である」における、迷亭による金田夫人との法螺の価値比べ

2016年6月23日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載52には、
苦沙弥先生の細君が、迷亭が金田夫人に発した法螺話に感心したのに対して、
彼が自分の法螺と夫人の法螺を比較して自らを弁護する、次の記述があります。

「「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆が
あって、曰く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。猿智慧から割り出した術数と、
天来の滑稽趣味と混同されちゃ、コメジーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを
得ざる訳に立ち至りますからな」主人は俯目になって「どうかな」という。妻君は
笑いながら「同じ事ですわ」という。」

こじつけもはなはだしく、思わず微苦笑してしまいます。金田夫人の他人の都合も
頓着しないで、手段を択ばず、何が何でも自らの目的を果たそうとする傲慢さ、
そのための狡知を迷亭は彼女の下品な法螺と断じ、自身の教養を悪用した、罪の
ない他者を困惑させ、振り回す嘘を、高尚な法螺とうそぶいているのです。

苦沙弥や細君が言うように、どっちもどっちとも思われますが、私のような読者と
いう第三者の立場から見ると、時の権勢を笠に着た成金の夫人を迷亭が茶化す
姿は、何か胸がすく思いがします。

これはこれで、彼がわざわざコメディーの神様まで持ち出して自己弁護する意味も、
あるのではないでしょうか?

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