2015年12月30日水曜日

漱石「門」における、子供に関する御米の心痛と罪悪感

2015年12月29日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第六十三回)に、折角子供を授かっても無事に出産出来ないことに
対する御米の苦悩と、一人で背負い込んでしまっている罪悪感に
ついて記する、次の文章があります。

「御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい
運命の厳かな支配を認めて、その厳かな支配の下に立つ、幾月日の
自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、
時ならぬ呪咀の声を耳の傍に聞いた。」

御米にとっては、本当に気の毒なことです。出産に対する医療技術が
まだ未熟で、現在なら助かる命が失われてしまうという面もあります。

また当時の女性の社会的立場という意味においても、子供を産むことが
出来ないということに対しては、母親が一身に責任を感じなければ
ならないことにもなるでしょう。

その上に、宗助と御米の結婚が倫理観に背くものであり、さらには
この当時には、姦通罪というものが存在して、二人に対する世間の
風当たりが相当強かったことを勘案すると、彼女のプレッシャーは
並大抵ではなかったと想像されます。

宗助は御米のことを大切に考えていますが、その辺りの気遣いには
残念ながら疎いようです。男と女のどうしようもない隔たりということで
しょうか?

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