2015年12月16日水曜日

漱石「門」における、御米の症状を心配しながら家に帰る宗助

2015年12月16日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第五十五回)に、勤め先の役所から、御米の具合を気遣って早引けして
帰る宗助の心の働きを記する、次の文章があります。

「 電車の中では、御米の眼が何時頃覚めたろう、覚めた後は心持が大分
好くなったろう、発作ももう起こる気遣なかろうと、凡て悪くない想像ばかり
思い浮べた。何時もと違って、乗客の非常に少ない時間に乗り合わせた
ので、宗助は周囲の刺戟に気を使う必要が殆んどなかった。それで自由に
頭の中へ現われる画を何枚となく眺めた。そのうちに、電車は終点に来た。」

宗助の御米に対する思いやりや優しさが、よく描写されている文章です。
また彼が、これまでに御米の病状に接した経験にもよるのでしょうが、少し
楽観的であるようにも感じられます。あるいは、そのように考えて、自身で
自分を励ましているのかも知れません。

乗っている電車がいつもより空いているので、あれこれ想像の画像が浮かぶ
というのも、いい得て妙と感じさせられました。車内という閉ざされた空間の
中で、それでいて気にならない適度な人数の乗客がいて、また自身は体を
たとえば座席に預けて所在なく佇んでいる時、空想が頭を巡るということは
ままあることです。ましてや、気がかりなことがあれば、なおさらでしょう。

漱石が鉄道を描く場面には、しばしば登場人物の心の動きとからませて、
秀逸だと感じさせられることがあります。

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