2015年12月28日月曜日

井上章一著「京都ぎらい」を読んで

旧洛外、嵯峨育ちの国際日本文化研究センター教授、井上章一による
愛憎入り混じる京都論です。著者ならではのユーモア溢れる、歯に衣着せぬ
物言いが、全編に心地よいリズムを刻みます。

私が本書を読み始めてまず感じたのは、何とも言えぬおもはゆい想いでした。
というのは、私は生まれも育ちも洛中の人間で、自分自身は洛中、洛外の
別をことさら意識していないつもりでいますが、今現在でも私より年かさの
周囲の洛中人の多くには、確かに強い洛中特権意識があるように感じられる
ことがあります。

それは伝統ある都の自治を担って来たという、町衆の誇りに由来するもので
あり、そのような気概によって連綿と町が支えられて来たのも紛れもない
事実でしょう。

しかし今日の交通、通信、情報の飛躍的な発展によってもたらされた開かれた
社会環境にあっては、古い都市住民に残る特権意識は、新しく入って来る
人々との間に、軋轢を生みかねません。

現に私の暮らす地域でも、旧来からの住民と最近急増するマンションに
引っ越して来た新住民との意思の疎通を計ることが、緊急の課題となって
います。もちろん、この場合においても、旧住民の特権意識だけが新住民との
交流を妨げているとは思いませんが、その要因の一つであることは間違い
ないでしょう。

さて同じ京都市の市民でも、洛外出身、在住の人が、洛中の人間に感じ取る
軽視されているという腹立たしさは、合わせ鏡としてこの地の保守性を焙り
出します。私は、その事実をこの本から突きつけられて、困惑したのです。

本書の前半、洛中人や僧侶の特権意識を語るくだりでは、著者は京都の
旧弊に物申す目的でこの文章を綴っていると感じられましたが、後半に入り
この都市の現在に至る歴史的経緯に話が及ぶと、京都が長い歴史を有する
都であるだけに、古い時代の時々の為政者が施した政策が、今なお
この都市の佇まいや住民の意識に影響を及ぼしていることが見えて来ます。

つまり長い風雪に耐えた歴史的建造物だけではなく、思考方法、倫理観、
美意識など京都人の気質のすべてが、長い有為変転する歴史の中で培われた
のです。

この部分まで来ると、本書は俄然読み物としての密度を増し、優れた都市論、
社会生活を営む存在としての人間論になっていると、感じられました。
井上章一、決して侮るべからず。

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