2019年9月26日木曜日

友の死に触れて

先日、ある親しい友人のお宅に、彼とゆかりのある数名で弔問に行って来ました。

実は彼は5月に亡くなっていて、本来なら当然葬儀に赴いているはずなのですが、
晩年の彼は、高齢で介護の必要なお母さんと二人で実家で暮らしていて、そのお宅
での突然の死であったために、友人の顔を見ると余計に悲しみがこみあげて来ると
いうことで、お母さんの意向でその死は友人にも伏せられ、親族だけで葬儀が行わ
れて、私たち親しい友人は葬儀に参加出来なかった、という経緯があったのでした。

この友人は、私が彼と同じ中学、高校、大学まで併設するミッションスクールに、中学
から通っていた関係から、その頃からの知り合いで、高校時代から親しくなり、大学も
同じ学部だったので、更に親密に付き合うようになったという関係でした。

社会人になってからも、私が一時会社勤めをして京都を離れた時以外は、二人とも
自営業で地元在住だったので、親しく付き合って来ました。また、後年彼が商売を
止めてからは、若い時の経験を生かして、私たちの店の経理を見てもらっている会計
事務所に再就職したので、彼が担当になって店の業務を補佐してもらっていました。

このような親しい友人関係でありながら、彼の死はその会計事務所の所長さんより
初めて知らされ、葬儀にも参加出来なかったこともあって、私の心の中には喪失感と
同時に、わだかまりも残っていました。

ところが先日、彼の妹さんより、お母さんが介護施設に入られて、実家は日頃無人
ではあるが彼女が管理しているので、よければ弔問に訪れてください、というお誘い
を頂きました。そういう訳で、友人同士誘い合わせて、彼のお宅を訪問することになっ
たのでした。

当日妹さんの待つ彼の実家を訪れると、二階に遺影と共に祭壇が設けられて、遺骨
はお母さんが施設に持っていかれたということで、そこにはありませんでしたが、私
たちは、彼の冥福を祈り、焼香をしました。

その後、妹さんより彼の幼い頃から若い日までのエピソードを聞き、彼が青年期から
寝起きし、私も度々遊びに行った、そしてそこで息を引き取った、彼の居室に案内
されて、この弔問は終わりました。

親しい友人の死を知りながら、その時までその死亡の事実を実際に確認出来なかっ
たために、何か宙に浮いたような状態であった私の心は、もぬけの殻の彼の自室に
佇み、その懐かしい室内の空気を吸うことによって初めて、彼の死を受け入れたよう
に感じました。

その意味で遺骨はなくとも、今回の訪問には十分に意味があったと、感じられました。

0 件のコメント:

コメントを投稿