先日、ある親しい友人のお宅に、彼とゆかりのある数名で弔問に行って来ました。
実は彼は5月に亡くなっていて、本来なら当然葬儀に赴いているはずなのですが、
晩年の彼は、高齢で介護の必要なお母さんと二人で実家で暮らしていて、そのお宅
での突然の死であったために、友人の顔を見ると余計に悲しみがこみあげて来ると
いうことで、お母さんの意向でその死は友人にも伏せられ、親族だけで葬儀が行わ
れて、私たち親しい友人は葬儀に参加出来なかった、という経緯があったのでした。
この友人は、私が彼と同じ中学、高校、大学まで併設するミッションスクールに、中学
から通っていた関係から、その頃からの知り合いで、高校時代から親しくなり、大学も
同じ学部だったので、更に親密に付き合うようになったという関係でした。
社会人になってからも、私が一時会社勤めをして京都を離れた時以外は、二人とも
自営業で地元在住だったので、親しく付き合って来ました。また、後年彼が商売を
止めてからは、若い時の経験を生かして、私たちの店の経理を見てもらっている会計
事務所に再就職したので、彼が担当になって店の業務を補佐してもらっていました。
このような親しい友人関係でありながら、彼の死はその会計事務所の所長さんより
初めて知らされ、葬儀にも参加出来なかったこともあって、私の心の中には喪失感と
同時に、わだかまりも残っていました。
ところが先日、彼の妹さんより、お母さんが介護施設に入られて、実家は日頃無人
ではあるが彼女が管理しているので、よければ弔問に訪れてください、というお誘い
を頂きました。そういう訳で、友人同士誘い合わせて、彼のお宅を訪問することになっ
たのでした。
当日妹さんの待つ彼の実家を訪れると、二階に遺影と共に祭壇が設けられて、遺骨
はお母さんが施設に持っていかれたということで、そこにはありませんでしたが、私
たちは、彼の冥福を祈り、焼香をしました。
その後、妹さんより彼の幼い頃から若い日までのエピソードを聞き、彼が青年期から
寝起きし、私も度々遊びに行った、そしてそこで息を引き取った、彼の居室に案内
されて、この弔問は終わりました。
親しい友人の死を知りながら、その時までその死亡の事実を実際に確認出来なかっ
たために、何か宙に浮いたような状態であった私の心は、もぬけの殻の彼の自室に
佇み、その懐かしい室内の空気を吸うことによって初めて、彼の死を受け入れたよう
に感じました。
その意味で遺骨はなくとも、今回の訪問には十分に意味があったと、感じられました。
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