2019年9月13日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1565を読んで

2019年8月29日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1565では
演劇家・作家、岡田利規が、京都国立近代美術館で開催されている「ドレス・コード?
ー着る人たちのゲーム」展によせた文章から、次のことばが取り上げられています。

   どんな服を着れば何も表明せず誰も刺激しな
   いで済むだろうか。 でもそんな服はない。

私もこの展覧会を観て、人が服を着るということについて、大いに考えさせられまし
た。地位や職業、帰属する組織であったり、あるいは好み、意思表示であったり、
人は意識的に、もしくは無意識的に自分の服装を選択し、逆にそれを選ぶことによっ
て、自分が自分であることを世間に表明しているらしいということを、知ったからです。

例えばファッションに無頓着な私なども、半ば無自覚に選んでいる洋服が、京都の
小さな自営業の店主らしい服装である、というように。

しかし服装の選択肢が、ここで取り上げられている、東日本大震災後の非常事態下
の首都圏のように、社会状況や世間の風潮によって圧力を受け、狭められるという
事態が、起こることがあります。それは決して好ましいことではないでしょう。

極端な例が、第二次世界大戦中の日本の市井の人々が、国防服の着用を義務付け
られたように。

ここまで考えて私は、本来自由であるべき服装の制限は、言論や表現の自由という
人権の侵害にも結び付きかねない、と感じました。

例え些細なこと、日常の習慣的なことにおいても、自分の考え方や立ち位置を認識
し、社会からの常ではない圧力や干渉に対しては敏感であること、私たちはこれから
益々そういうことが求められているのではないかと、このことばを読んで感じました。

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