2017年11月21日火曜日

ジャファル・パナヒ監督映画「人生タクシー」を観て

あのアッパス・キアロスタミの愛弟子で、現代イランを代表する映画監督ジャファル・
パナヒの「人生タクシー」を観ました。2015年ベルリン国際映画祭の金熊賞、
国際映画批評家連盟賞の同時受賞作です。

この映画のすごいところは、パナヒ監督が反体制的な創作活動によって、当局から
2010年より20年間の映画監督禁止令を受けながら、なおかつ当地に留まり撮影した
映画であるということです。

今回の作品ではパナヒはこの命令を逆手に取って、自らテヘランの街のタクシー
運転手に扮して、車載カメラの映し出す乗り合わせた客の生態を通して、厳しい
情報統制下のたくましい庶民の姿を活写します。

まず驚くべきは、このような状況でも、体制側の監視の目をぎりぎりのところで
かいくぐって映画を撮ろうとする、監督の並々ならぬ情熱、撮影手法の巧みさで、
過去の歴史の中で幾多の表現者が弾圧される報道を目にして来た私たちは、
この勇気と知恵を併せ持つ監督に拍手を送らざるを得ません。

また同時にこの秀逸な企てが、世界中の今なお困難な境遇に置かれた人々に
励みを与えることを、信じたくなるのです。

このような制限の下に制作されたこの映画は、その性格上フィクションと
ノンフィクションのあわいを描き出すような、巧妙な演出がなされています。

冒頭パナヒのタクシーに乗り合わせた女性教師と、たくましそうな男とのイランの
死刑問題を巡る激論。その生々しい議論は、現場に立ち会うような臨場感を醸し
出しますが、この男が降り際に自分の仕事が強盗であると告白すると、にわかに
虚構に接する思いが増して来ます。

ただ単に、カメラが捉える現実をモニターしているのか?それとも巧みな演出に
よって、観客が現実と錯覚しているのか?本当のところは無論、明らかにされ
ませんが、映像表現におけるフィクションとノンフィクションの境界の曖昧さに
ついて、改めて考えさせられました。

余談になりますが、私たちには馴染みの薄い乗り合いタクシーの魅力にも
気づかされました。

さて数々の乗客が登場して、運転手との意味深長なやり取りが繰り返される中で、
監督の小学生の姪役に扮するおませな女の子が、車窓から自分の映画を撮ろう
という名目で貧しい男の子にカメラを向けていた時、彼が拾った金を持ち主に
返そうとしないのは、自分の撮影の想定に合わないと憤慨するシーン。

パナヒ監督が、いかなる状況でも自分本位の思い込みで映画を撮っては
いけないと、メッセージを発しているように思われて、極限下の彼の誠実さに、
清々しさを感じました。

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