2017年8月7日月曜日

星野博美著「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」を読んで

若桑みどりの労作「クアトロ・ラガッツィ」をよんでいるので、我が国の約400年前頃の
キリスト教の流布、天正遣欧使節の顛末、キリシタン弾圧という歴史の流れについて
は、ある程度知識を持っているつもりでいます。

さて、その上で本書を読むことにしたのは、この時代の宣教師やキリシタンの様子を
より具体的に知りたいと思ったからです。その意味において、著者が歴史の痕跡を
求めて現地に赴き、文献や資料を渉猟しながら在りし日の彼らに思いを馳せる本書
は、十分に私の期待に応えてくれたと感じました。

まず著者がリュートを習い始めることから、この時代の手触りを探り始めるところが
好ましく感じます。なぜなら、音楽は人間の原初的な表現手段の一つで、その時代の
空気を映す鏡であると、感じられるからです。リュートを通して著者はすんなりと、
あの時代を生きた人々の心に同化して行ったのでしょう。

しかし、このように呼吸を整えた上での著者のキリシタン巡礼は、迫害という厳然たる
現実もあって痕跡が如何にも乏しく、当初彼女を戸惑わせますが、持ち前の行動力
による丹念な探索と、空白部分には想像力を補うことによって、次第に当時の宣教師
や日本人信者の思いを浮かび上がらせて行きます。

予めの歴史的推移は、前述の書で既に知っているので、私が本書から掬い取ること
が出来たのは、弾圧に直面する人々の思いで、またそれに付随して、当時のカトリック
の信仰とは如何なるものであったかということも、漠然とではありますが、知ることが
出来たと感じました。

私にとってとりわけ興味深かったのは、宣教師と信徒、弾圧者とキリシタンの関係で、
まず宣教師は、自分が信仰に導き入れた信者の告解をいつでも聴くという形で、その
信者に責任を持たなければならなかったといいます。それ故宣教師は、国外追放の
命令が出ても自らの信者のために国内に潜伏し、あるいは一旦出国しても再び舞い
戻って、殉教を遂げることになるのです。

またキリシタンには、殉教することが最高の名誉であるという絶対的な価値観があり、
殉教を積極的に受け入れようとするところがあるようです。従って弾圧者が、見せしめ
のためや棄教を促すために、より残酷で、苦しみが続く処刑方法を取り入れても、
かえってそうすることがキリシタンの殉教志望者を増加させることになったそうです。

最近で言えば、イスラム原理主義者の自爆テロが示すように、信仰のために自ら命を
犠牲にするという考え方は、私などには到底理解を超えるものですが、宗教を巡る
時代を超越した普遍的な人間の感情を見る思いがして、しばし考えさせられました。

0 件のコメント:

コメントを投稿