2017年8月19日土曜日

松山大耕「現代のことば 「孤独死」は本当にいけないことか」を読んで

2017年8月17日付け京都新聞夕刊の「現代のことば」では、妙心寺退蔵院副住職の
松山大耕氏が、「「孤独死」は本当にいけないことか」と題して、人の臨終について論じ
ています。私には父母の介護経験を踏まえて、何かと考えさせられるところがあり
ました。

まず「孤独死といわれて亡くなった人のほうが病院で亡くなる人よりも穏やかな死に顔
をされていることが多い。」というある医師の証言から、「生物の一番自然な死に方は
餓死」であり、「単独で死を迎える人はそういう亡くなり方をされる場合が多い」という
結論が導き出されますが、私の父は糖尿病に起因する脳梗塞から嚥下障害を起こし、
最早自力で食べられなくなってからも最後まで、食欲を訴えて亡くなりました。

無論現代の医学の進歩がなかったら、父の命はその状態になる以前に失われていた
のであり、脳梗塞を発症した後症状が一時快方に向かい帰宅した時、少しは食べたい
ものを食べることが出来たことが良い思い出であったと、死の前に父が告白したことが、
看病していた私たち家族の慰めでしたが、私自身その経験から日常の食の節制と
体調管理を改めて肝に銘じたものでした。このことからも、医療に余り依存しない、
自然に食欲が減退して行くような死の迎え方が理想だと、感じて来ました。これは
上述の話にも通じると思います。

「生老病死」の「四苦」の中で、現代社会では「死」より「老い」の苦しみの比重が高まって
いるという指摘も、過度な延命治療や認知症の問題が盛んに取り沙汰される現状を見て
いると、大いに頷けます。

私の母も老いに伴う心臓の疾患と、最近では認知機能の低下も見られ、入退院を繰り
返していますが、私の仕事がある程度時間の融通が利く自営業ということもあって、
入院している時は出来るだけ頻繁に見舞いに訪れ、自宅にいる時には時間の許す限り
話しかけ、寄り添うようにしています。高齢の人が孤独感を感じることは、色々な意味で
症状を進行させると思うからです。きれいごとだけではなく葛藤もありますが、せめて
ある程度以上の満足をもって、家族一人一人が人生を全う出来ればというのが、私の
望みです。

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