2017年8月27日日曜日

国立国際美術館「クラーナハ展 500年後の誘惑」を観て

クラーナハというと私がまず思い出すのは、若い頃にウィーンの美術史美術館で
観た、暗い背景の中から浮かび上がる独特のプロポーションで、特異で艶めかしい
ポーズを取る女性の裸体画でした。一度観ると決して忘れられない、強い印象が残る
からでしょう。

他方彼が500年前、宗教改革の時代に活躍した画家であったということは、今展で
初めて知りました。そういえばこの展覧会にも出展されているマルティン・ルターの
肖像画は、何かの図版で目にしたことがあります。

実際に観ると、同時期の裸体画など他の主題の作品と同じような描法で描かれて
いるように見えながら、この肖像画には内から滲み出てく来るような厳粛さが表現され
ているように感じられます。クラーナハの絵画がまとう特異さと、それを支える技量の
確かさを、改めて見る思いがしました。

またこの画家は、本展の目玉ともいえる「ホロフェルネスの首を持つユディト」に代表
されるように、誘惑する女性を描いた絵を多く残しています。彼の裸体画が誘うような
独特の魅力を放つのも、彼のそのような嗜好に起因しているのでしょう。

説明書きを読むと、彼の誘惑というテーマには審美的に魅了するという要素と、誘惑
されることを戒めるという道徳的な要素の相反する二面性があり、それは彼の生きた
時代の要請によって規定される部分が大きいに違いありませんが、画家自身が
重層的で複雑な精神構造を持っていただろうことが、想像されます。

クラーナハの人生を年表から辿ると、彼は神聖ローマ帝国のザクセン選帝侯に宮廷
画家として仕え、宗教改革の嵐が吹き荒れる中、主君に習いルターに理解を示し、
また一人の画家として大成するだけではなく、大規模な工房を構えて作品を量産し、
後にはそれを子に譲って繁栄を継続させる。また同時に政治家、実業家としても
手腕を振るったのです。この彼の一筋縄ではいかない複雑な人間性が、その作品
全体に神秘的な影を宿しているようにも感じられました。

クラーナハとデューラーは、ドイツ・ルネサンスを代表する画家と言われます。本展
では両者の版画作品が、比較出来るように並べて展示されています。こと版画に関し
ては、相対的にデューラーの完成度に一日の長があるように感じられますが、二人が
活躍した華やかな時代が彷彿とされます。

また、クラーナハに影響を受けたピカソやデュシャンの作品も展示されていて、
ヨーロッパの美術の連綿と続く流れを感じさせられました。
                                  (2017年2月18日記)

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