2017年7月26日水曜日

鷲田清一「折々のことば」819を読んで

2017年7月21日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」819では
フランスの美学者ミケル・デュフレンヌの「眼と耳」から、次のことばが取り上げられて
います。

 耳と眼はいずれも・・・・・流儀は異なっているにしても、距離をおいた触覚の器官で
 ある。

このことばを読んで、私は何か腑に落ちるようなものを感じました。

というのは、ただ漫然とものを見たり、音を聞いたりする場合にはそんな感覚は生じ
ないけれど、例えば心を集中させて音楽を聴いていたり、絵画に見入っている時など
には、聴くということ、観るということが、直に対象に触れているように感じられる
ことがあるからです。

しかし悲しいかな我に返ると、その対象との間には厳然たる距離が存在して、こんな
に肌に触るように、手で輪郭をなぞるように分かったつもりでいたのに、その対象が
急に遠ざかるようなもどかしさに囚われることがあります。

この微妙な感覚を、上記のことばは端的に表現しているのではないでしょうか?

私たちの周囲を取り巻く大気は目には見えず、手に触れる感触もないので、我々は
往々に他の人に対しても、ものに対しても、孤立して、あるいは独立して地球上に
存在しているように感じるけれども、大気圏外から遠望してみれば、地球という惑星の
表面で大気のヴェールに包まれて寄り添うように存在している・・・。

そのような生存環境の中で、大気の間を自在に行き交う音や光を媒介として、私たちは
他者とつながり、ものを認識して日々を過ごしているのではないか?そして時として、
感動したり、美しいものを目にして忘我の境地に至った折に、私と対象を隔てる距離は
在って無いように感じられるのかもしれません。

この科学的な、しかし詩的なことばを読んで、そんなことを夢想しました。

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