2017年7月9日日曜日

鷲田清一「折々のことば」805を読んで

2017年7月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」805では
作家森まゆみの「子規の音」から、正岡子規の母の次のことばが取り上げられています。

 のぼさん、のぼさん・・・・・・サア、もう一遍痛いというてお見

のぼさんは言わずと知れた、子規の幼名から生まれた愛称です。彼は「病牀六尺」では
脊椎カリエスという死の病に侵されながら、常に冷静で、客観的な視点を失わない見事な
随想を残していますが、実際の闘病生活は激痛を伴う過酷なものであったといいます。

その闘病生活を支えた母親の献身、苦悩はいかばかりのものであったでしょうか?

しかしこの母親は、やっと苦痛から解放された息子にこう語り掛けます。この言葉には、
子規が病を患ってからの母の悲しみも、憤りも、諦念も、全てを飲み込む万感の思いが
詰まっているのでしょう。

立場はまったく逆ですが、私も心臓に欠陥を持つ高齢の母が、先般その副次的な影響で
腸の病に倒れ、一時は死を覚悟しながら少しづつ持ち直し、そうかと思うとまた心臓の
具合が悪くなって体調が低下するといった先の見えない状況を経て、ようやく老健施設
からの帰宅の目途が立った状態で振り返ってみると、子規の母親の気持ちが幾分分かる
ような気がします。

というのは、母が苦痛に顔をゆがめ、あるいは息苦しく血の気の引いた顔色をしている
時には、一刻も早く楽にしてあげたいと心から感じ、しかし一時落ち着くと、やはりどの
ような状態でも少しでも長く自分の傍らにいて欲しいと願います。そのような両極端の範囲
の内でも、母の病状の些細な変化によって、私の心は千々に揺れ動いたのです。

もしかすると人を介護、あるいは看護するということは、される側のみならずする側にとって
も、心が救われることなのかも知れません。

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