2017年6月25日日曜日

鷲田清一「折々のことば」791を読んで

2017年6月22日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」791では
民俗学者宮本常一の「忘れられた日本人」から、次のことばが取り上げられています。

 何も彼も知りぬいていて何にも知らぬ顔をしていることが、村の中にあるもろもろの
 ひずみをため直すのに重要な意味を持っていた。

かつて宮本常一が丹念に聞き取りをした、私たちの国の村落共同体で大切にされて
来た、皆が力を合わせて生きて行くための生活の知恵には、一読して深い共感を
持ったものでした。中でも、共同体における老人の力は、欠くべからざるものであった
と、記憶しています。

今日社会の移り変わりの速度は甚だしく、科学技術の進歩も急激であるために、
一定以上の年齢を重ねると、最新のテクノロジーについて行くことが大変になります。
それ故老人の蓄積された知識より、彼らが現代社会に対して感じている戸惑いの方が
クローズアップされて、社会に対する知恵という部分においても、老人の力が軽視
される傾向にあるのではないでしょうか。

しかし他方、インターネットなどの情報通信手段で得られる知識は、膨大で広範では
あっても、表面をなぞるような浅薄なものである場合が多く、実生活に有効な形で
役立つとは言い切れないことが往々にあります。

経験に裏打ちされた老人の意見には、こういう時代だからこそもっと耳を傾けるべき
ではないか?もちろん旧弊なものや、時代にそぐわないものは、受け取る側が慎重に
選り分けなければならないけれど、この激動の社会を長く生き抜いて来た人々に
蓄積された知恵に、私たちはもっと真摯に向き合うべきではないかと、このことばを
読んで改めて感じました。

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