2017年6月27日火曜日

「福岡伸一の動的平衡 「記憶にない」ことこそ記憶」を読んで

2017年6月22日付け朝日新聞朝刊、「福岡伸一の動的平衡」では「「記憶にない」
ことこそ記憶」」と題して、「記憶にない」とはどういうことかを生物学的に考察して
います。

まず私たち科学に疎い人間は、記憶というとつい脳の内部に蓄積された形ある
情報のように感じてしまい勝ちですが、記憶とはそのような物質ではなく、脳細胞と
脳細胞をシナプスで連結した回路に電気が通るたびに「生成」される、形状をなさない
ものだそうです。

そう考えると、腑に落ちる部分があります。いわく、どうして私たちの記憶はまだら状に
失われるのか?どうして思い込みによる手前勝手な記憶違いが生じるのか?記憶と
いうものが、脳細胞と脳細胞を結ぶ頼りない信号に過ぎないからに違いありません。

その事実を踏まえて、「記憶にない」ことの考察が筆者らしく卓抜です。つまり「記憶に
ない」ことは、前後の記憶があってこそ認識出来る。記憶にないことが即ち記憶で、
”欠落は、欠落を取り囲む周縁があって初めて欠落とわかる。”と喝破しています。

加齢とともに記憶力が随分と頼りなくなった私自身を振り返ってみると、かつてはよく
ご来店頂いたのに少し間が開いて、久しぶりにお目にかかったお客さまのお顔は
はっきりと覚えているのにお名前がなかなか出て来なくて、お尋ねするのも気が引け
てばつが悪い思いをすることが、しばしばあります。

この現象なども、もっとも自分の不甲斐なさを取り繕おうとしているのでは決してありま
せんが、私の場合画像の記憶は鮮明で長持ちし、名前という文字の記憶はそれに
比べて失われ易いということではないでしょうか?

いずれにしても、「記憶にない」という持って回った言い方にうさん臭さがつきまとう
のは、十分ゆえ有ることであると、筆者の生物学的考察は雄弁に物語っているよう
です。

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