2017年6月10日土曜日

鷲田清一「折々のことば」776を読んで

2017年6月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」776では
ある死生観を信じ、安んじて死を迎えられるとはどういうことか、ということに
ついて、倫理学者大町公の著書「生きられた死生観」から、次のことばが取り
上げられています。

 暗闇に、かすかな光を見る、いや、見えるような気がする。

自然の事象や、煩わしい人間関係から切り離され、万事において生きることの
刹那に、合理的な目的を必要とするようになった私たちは、必然死という現実の
生活の突然の遮断から切り離されて、その日その日を過ごすこととなりました。

それ故私も、例えばテレビのニュースや新聞記事で人の死に触れても、何か
よそ事で、かろうじて親しい人の葬儀の場で変わり果てた故人の姿を眼前にし、
遺族の悲しみに接した時に、死ということにしばし思いを巡らせるにしても、
なかなか自分自身の死の瞬間がどのようなものであろうか、ということについて
まで思いが及ぶことはありません。

だから実際の自らの死に直面した時、私がどのように感じ、どのように振舞う
のかは、想像だに出来ません。

古来死に行く人の心の準備を助け、此岸へとスムーズに誘うために、宗教という
ものが存在したのだと思いますが、最早私自身は、全面的にそれに身をゆだねる
には、無垢で素朴な心を失い、雑念に支配されていると感じます。

ただ死ぬことによって全てが無になるのではなく、地球という生態系全体で考えた
時、肉体から分解された分子が何らかのかたちで次代の物質を形作ることを
信じて、死の瞬間に虚無と絶望から脱することが出来たらと、密かに念じるのみ
です。

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