2016年11月21日月曜日

鷲田清一「折々のことば」581を読んで

2016年11月18日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」581では
江戸期の名僧良寛の次の辞世の一句が取り上げられています。

 うらを見せおもてを見せて散るもみぢ

折しも紅葉の盛りのこの時期に、一枚の葉が散り落ちる様子を、まるで
スローモーションで見ているような、趣のある句です。

春の桜、秋の紅葉は、季節に係わる日本の風景の美の代表的なものだけれど、
鷲田の解説にもあるように、桜がパッと咲いて一斉に散り、すがすがしさや潔さ
というこの国の美に対する一つの価値観を、象徴すると見なされるのに対して、
紅葉はもっと複雑な美を、私たちに提供してくれるように感じられます。

秋が訪れ山々や林、街路や川沿いの並木などが徐々に色づき、常緑樹との
対比や色づきの時間差によるグラデーションが、あたかも絵画のキャンパスに
様々な色を散らしたかのような美しさを演出し、徐々に色あせ静かに散って行く。
残されるのは裸木のわびしさです。

葉の散る様子も、桜の花びらの一斉に散る華麗さに対して、一葉づつ生気を
失い、枯れ染めて名残り惜しそうに枝を離れる様子が、生の黄昏といった
雰囲気を感じさせます。

しかもまさに枝を離れた一枚の葉が、頼りなげに色をまだ残す表、くすんだ裏を
交互に見せながら、風に吹かれて落ちて行く有り様は、人生のはかなさを
現わしているようにも見えます。

しかしこの句を改めてかみしめてみると、良寛が人生の最終盤に至って、自身の
美点も欠点も包み隠さず白日に晒して、死を迎えるという覚悟を表明した句で
あるように思われて来て、更に深い感慨を覚えました。

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