2016年9月23日金曜日

漱石「吾輩は猫である」における、皆に大和魂を揶揄する短文を披露する苦沙弥

2016年9月22日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載108には、
我らが苦沙弥先生が大和魂に関する斬新な短文を何時もの面々に披露する
様子を記する、次の文章があります。

「「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く
魂である。魂であるから常にふらふらしている」
 「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、
誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」

本居宣長に大和心を読んだ歌があることからも、大和魂という言葉が江戸時代
から存在していただろうことは薄々知っていましたが、漱石の時代に大和魂の
概念がもてはやされたことは、正直知りませんでした。

しかし折しも歴史を紐解けば、日露戦争の勝利が、日本人の愛国心や自尊心を
高揚させ、帝国主義的な国の政策も相まって、日本的なものの考え方の独自性や
優位性がことさら強調され、軍備を増強し、他国の排除、拡張主義的な方針が
推し進められて行く過程で、大和魂の精神主義が大きく寄与したことを知ると、
漱石のこの文章の先見性が見えて来ます。

さらに歴史を辿ると、第二次世界大戦での破局へとこの国を導いて行ったものの
中に、この頃芽生えた日本人を特別視する大和魂が確かに存在したことは、
間違いないでしょう。

漱石はそこまで、日本の将来を見据えていたのでしょうか?

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