2016年9月19日月曜日

中村真一郎著「蠣崎波響の生涯」を読んで

大著「蠣崎波響の生涯」をようやく読み終えました。興味があって購入してから
ついつい読むのを後回しにして年月が経ち、国立民族学博物館で原本とされる
「夷酋列像」が展示されるのを契機としてついに本書を開き、実物を鑑賞した後
読了するという、大変印象に残る読書体験でした。

波響は北辺の特異な藩の家老という政治の要職を務めながら、絵画、詩歌に
優れた仕事を残した傑出した人物ですが、残された作品以外には余り個人的な
記録がなく、その生涯は後世に辿るには、はなはだ心もとないものであったと
いいます。

それゆえ著者中村真一郎は波響の残した作品の分析と、周囲の比較的記録の
残る人物の彼との係わりの痕跡を丹念に跡付けることによって、そしてそれでも
なお埋まらない部分は小説家としての豊かな想像力を働かせて、次第に彼の
生涯の全体像を浮かび上がらせて行きます。

従って本書から立ち現われる蠣崎波響像は、何か薄い皮膜の背後に存在する
ようである意味幻めいていますが、その生きた時代と呼応して、彼の生涯の
在り方は確かなものとして描き出されていると、感じられました。

さて本書を読み終えて、やはり彼の生涯を象徴するものは「夷酋列像」であると、
改めて感じました。この列像図が彼の画歴の比較的初期の作品で、それ以降の
画技の上達は素人の私には分かりません。事実、民博での展観では以降の
作品も展示されていましたが、一番感銘を受けたのはこの図像でした。

その絵画的な魅力についてはすでに展覧会の感想で記しましたが、これを描き
上げた時の波響の心境に思いを馳せると、新たに立ち上がって来るものがある
ように感じられます。

それが何か考えてみると、彼が異国の侵入や幕府の干渉を視野に入れて、傾く
藩政を担わなければならない現役の政治家でありつつ、当代一流の教養を
有する芸術家であったということから生まれる心の緊張の具現化が、この図像に
言い表しようのない切迫感を生み出しているのではないか、ということです。

結局彼は、時代や社会情勢に翻弄される数奇な運命に生きることを定められ
ながら、一級の人物との驚くほどに豊かな交友関係を楽しみ、芸術上の達成を
生み出しました。

本書があぶり出す彼の生涯を現代の視点から改めて振り返ってみると、現代に
生きる私たちは、自分の人生はすべて自分で決められるという錯覚に陥りやすい
ですが、結局人は予め大枠を定められた運命に添って生きるしかなく、その中で
いかに自分らしく生きられるかということが人生の充実感を生み出すのでは
ないか、という感慨に至りました。

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