2016年9月14日水曜日

鷲田清一「折々のことば」514を読んで

2016年9月9日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」514では
夏目漱石の「草枕」から次のことばが取り上げられています。

 涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは
 泣くことのできる男だという嬉しさだけの自分になる。

凡人としては、一度でいいからそのような境地に至ってみたいものですが、ただ
詩歌にしても、小説にしても、創作しているその時には、ある意味そんな境地に
入り込むようにも感じられます。

つまり、創作の契機となる心の高ぶり、震えに揺り動かされながら、何とか
それを形にしようと、ある部分では冷静に、そして客観的に頭の中から文字を
しぼり出す。

文章を書いている時は私でも、頭のどこかの部分には、じっと自分自身を覗き
込むような冷徹な視線を感じながら、そのほかの脳の部分は書くことに
無我夢中になって、高揚感に満たされていることがあります。

その瞬間が、文章を書くことの喜びとも感じますが、ただし、凡人の悲しさ、
出来上がった当の作物を目の前にして、なかなか漱石のように満足や嬉しさの
境地には、至ることは出来ません。

しかし書いている瞬間の充実感があるので、また凝りもせず筆を執るのでしょう。

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