2016年4月29日金曜日

鷲田清一「折々のことば」384を読んで

2016年4月29日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」384では
俳人水原秋桜子の「新編歳時記」から、次のことばが取り上げられています。

 何が悲しいといふのではなく、何となく遣瀬ないのである。

「春愁」なんて言うと、私のような俗人はすぐに五月病などという無粋な言葉を
連想しますが、あながち見当違いでもないと思うのは、新入学、新社会人になる
というような人生を画する喜びごとの余韻がそろそろ覚め始めた時期に、
目の前のたちまちの目標を見失い、あるいはこんなはずじゃなかったと悲観する
というのも、急激な変化の後の悲しみかも知れません。

ことほどさように、移り行くということは、面白く、やがて悲しいものだと、私は感じ
ます。

もしそうであるなら、四季は移ろい、人間は歳を重ね、私たちを取り巻く環境や
私たち自身も常に変化して行くものなのですから、放って置くと我々はいつも
憂いを感じ続けることになるのかも知れません。

いわゆる生きることの悲しみというような・・・

だから私たちは、移り行きの風情の余韻を味わったなら、余り悲しみに包み
込まれないうちに、新たな変化への心構えを準備することも、必要なのでは
ないでしょうか?

風流な「春愁」への感懐が、ついつい脱線してしまいました。

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