2016年4月8日金曜日

鷲田清一「折々のことば」363を読んで

2016年4月7日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」363では、
知的障碍のある青年が、東京の商店街の即興で歌を作るプロジェクトで、
演奏を始める前に口にした、次のことばが取り上げられています。

 一生懸命やるかどうかわかりませんが、よろしくお願いします。

この瞬間に発せられたこの言葉にこそ、本当に如何なるものにも
とらわれない自由が、表現されているのではないでしょうか?

自由とは一見単純なようでいて、難しい観念だと思います。まず私たちが
人権を著しく制限されたり、非人間的な扱いを受けている時には、自由は
その状態から解放されるために目指すべきものとして、その獲得は明確な
目的となり得ます。

よく映画などで悪人に囚われている主人公が、丁度必死の脱出を試みる
イメージです。この場合自由は目標となり、それが見事に達成された時、
物語はハッピーエンドで幕を閉じます。

でも現実に私たちの置かれた状況は、そんなに単純ではありません。
自由は余りにも漠然としたものとして、それが何かと考える時、われわれを
途方に暮れさせます。時に自由でなければならないということが、思考や
行為の足かせとなって、私たちを苦しめます。

ところがこの青年は、「一生懸命やれるかどうか」ではなく、「一生懸命
やるかどうか」と堂々と宣言しているのです。色々なしがらみの有る中で、
控えめな謙遜を超越して、自分への素直さを何のてらいもなく出して
います。これこそ本当の自由な心情の表明ではないかと、私はうらやましく
思ってしまいました。

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