2020年4月30日木曜日

「與那覇潤の歴史なき時代 今年の桜見逃したって」を読んで

2020年4月16日付け朝日新聞朝刊、「與那覇潤の歴史亡き時代」では
「今年の桜見逃したって」と題して、筆者が現在、20年越しにアニメになった冬目景原作
の「イエスタディをうたって」を視聴していることにちなみ、その作品の魅力が、SNSの
発達していなかった時代、つまり「つながりすぎていなかった」時代の作中世界を描いて
いることにある、と語っています。

すなわち、携帯すらほとんど登場せず、スマホやタブレットは出て来ない、この作品の
世界では、すぐに答えが手に入らないゆえの登場人物の日常の豊かさがある、というの
です。

私自身の日常生活を振り返ってみても、かつては、距離を隔てた他者との個人的な通信
手段は、通常主に、手紙と固定電話だけだったのに、いつの間にか携帯電話が登場して、
その圧倒的な利便性に驚き、更には、電子メール、その他のSNSを使用するようになって、
どんどん便利になって行っても、もうそれほどの感慨はなく、それが当たり前の日常に
なっていると、感じられます。

そして、このように感覚が麻痺しているために、逆にSNSが私たちに及ぼしている影響が、
どのようなものであるかが分からなくなってしまっていると、思われます。

それゆえあえて、現在とSNS使用以前を比較してみると、他者とのつながりに限っても、
以前は自分の気持ちを人に伝えるためには、手数がかかるゆえの溜めが存在し、その
間(ま)の間に自分の考えを整理し、相手の気持ちを推し量る行為が介在したために、
お互いのコミュニケーションに含みが生まれた、と思い起こされます。

ところが現在では、SNSを使って右から左に連絡が取れる。その一方で、便利さゆえに
電話のやり取りでも迅速な応答が求められ、メールなど文字の通信の場合は、字数の
少なさゆえの気持ちの伝わりにくさなども、起こって来ます。その結果どうしても、意志
の疎通が表面的になりがちと、感じられます。

この両者の差異は必然的なものであっても、私たちはそのことに自覚的であるべきで
あると、改めて感じさせられました。

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