2020年4月6日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1762を読んで

2020年3月20日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1762では
哲学者アンリ・ベルクソンの『時間と自由』から、次のことばが取り上げられています。

  それらの物事は私と同じく生きてきたし、私
  と同じく老いたのだ。

少年時代に過ごした町を久しぶりに訪れると、外見上は根本的には変化していない
にも拘わらず、その印象があまりにも変わっていて、驚かされたことがあります。

例を挙げると、その頃暮らした家はあまりにも小さく、その家の前の道はあまりにも
道幅が狭いのでした。勿論この印象の大きな違いの主な要因は、私の身長がその
頃に比べて格段に高くなって、視点が上方に据えられたために、目の前のものを
見る感覚が変わった、ということでしょう。

でも単にそれだけでは説明出来ない要素も、確実にあります。かつてその場所で
実際に体験した私の喜怒哀楽、それに伴うものの考え方も、人生経験の中で中和
され、あるいは純粋な部分が磨滅させられて、あの頃の実在感が失われたために、
家や道が輝きを失い、小さな存在になってしまったというような。

同様に、私がかつてある出来事によって味わった感情の動きも、今改めて振り返っ
てみる時、必ず現在のものの感じ方を加味して、その体験を回顧することに、なる
のでしょう。

例えば、正義感に駆られて激しく憤ったことが、大人げなく感じられたり、すごく感激
したり、満ち足りた気分に浸ることが出来たことが、うらやましく感じられたりする、と
いうように。

これらの現実は、上記のことばでベルクソンが語るように、かつての体験も私自身
と同じように年老いた、ということを現していることになるのでしょう。人が歳を重ね
ることは、結局肉体の変化だけではなく、それまでの体験も血肉化する、ということ
なのでしょう。

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