2016年12月28日水曜日

漱石「吾輩は猫である」における、苦沙弥の人間世界の狂気についての思索

2016年12月26日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載166には
吾輩が、主人の人間界に蔓延する狂気についての思索を読心術で読んで、
その内容を代弁する次の記述があります。

「気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が
出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を
濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だといわれて
いる例は少なくない。何が何だか分からなくなった。」

一見取り留めもない考察のようでいて、その実は深いことを語っているように
感じました。

人間というものは、平時には相対的に一応分別もあり、健全な社会生活を営んで
いるように見えるけれど、社会情勢の激変など、周りの環境が著しく変わった時、
あるいは何か特殊な価値観が人々に共有され、その価値観が多くの人を突き
動かすようになった時など、通常には考えられない集団的な狂気に駆り立て
られるようになることがあるのは、歴史が証明する事実です。

そのような情動や狂気は、どうして引き起こされるのか?やはり一人一人の心の
中に狂気の種が潜んでいるのではないか?そんなことを考えさせられます。

あるいは突然カリスマ的な指導者が生まれて、その人の思想がある種の狂気を
はらんでいる時、通常は分別のあるはずの多くの人々が次第にその思想に
感化されて、最終的には思いもよらない行動に及ぶということがあるということも、
私たちは既に知っています。

勿論、社会の大きな動きに対しては、私たち市井の人間の一人がどうあがいても、
どうしようもないことも多いけれど、少なくとも苦沙弥先生や吾輩のように、この
社会というものを、やや離れたところから冷静に見る視点を持つことが必要では
ないか?そんなことも考えさせられました。

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